メッセージ - 最新エントリー
天上の裏舞台 大公開(ヨブ記1:1-12)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記の本題が始まり、ヨブという人物の人となり、その子どもたちの様子、そして人間には見えない天上会議の場面が語られる。神様がヨブの周りに信仰ゆえの「垣(囲い)」を巡らせて守られたこと、サタンの訴えとその限界について語られ、私たちを本当に守るのは信仰であり、主ご自身が私たちの報酬であることが説かれた。
【聖書箇所】
-
ヨブ1:1-11
-
ヨブ1:9
-
ヨブ1:11-12
-
Iペテロ1:5
-
創世記3章
【励ましの言葉】
神を恐れ、悪から遠ざかろうと努める者は、ますます神様から喜ばれる者へと成長していく。本当に信仰をしっかりと握りしめるならば、神様から自慢されるものになる。皆さん自身も、この夜のごとくしっかりと信仰を自分自身で保ち、また子どもたちに信仰を受け継いでいこう。
【勧めの言葉】
とりなしの祈りだけでなく、先手を打って子どもたちに主を恐れることを教え諭すことが大切である。どうかこの主を報酬とし、主によって祝福の人生を歩んでいく皆さんでありますように。子ども自身が信仰によって独り立ちするまで教育すること、これが私たちの務めである。
【慰めの言葉】
信仰によって、神の御力によって私たちは悪魔サタンの手から守られている。神様は皆さん一人一人の小さな歩みを天から見ておられ、天上会議において列席している者たちに自慢してくださる。主が皆さんの報酬であるならば、皆さんは主の囲いの中で守られ、決して悪魔にタッチされることはない。
【戒めの言葉】
私たちも気をつけるべきである。皆さんは何故に神様を敬っているだろうか。財産が守られるから、祝福されるから、ということであれば、そこがサタンがつけ込んでくるポイントである。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はヨブ記1章1節から11節です。本日からヨブ記の本題に入っていきたいと思います。
「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて、悪から遠ざかっていた。彼に7人の息子と3人の娘が生まれた。彼は羊7000匹、らくだ3000頭、牛500くびき、雌ろば500頭、それに非常に多くのしもべを所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった。」
今朝もこのヨブ記から恵みをいただいていきたいと思うのですが、まずこのヨブ記の始まりにヨブの人となりが記されております。ヨブという人がいた。誠実でまっすぐな心を持っていて、神を恐れて悪から遠ざかっていたというふうに書いてあるのですが、ヘブライ語ではbe動詞「ハヤー」があるのですが、これは「であった」とも訳せますが、それと同時に「こういう人になった」というふうにも訳せるのです。ですから、ヨブは生まれつき誠実で、神を恐れてまっすぐな心ということではなく、こういうふうになっていったわけです。ヨブ自身が神様を恐れる心を持とうと努めていたところ、ますます誠実になり、ますますまっすぐな心になり、ますます悪から遠ざかりたくなっていった。そうしてついにはそういうふうになっていった。ですから、未完成において清く、また悪から遠ざかろうと努力していく人はそういうふうになっていって、そして神様は喜ぶ。そういうものになったのです。神様は天上会議によってヨブを自慢するのですが、皆さんも本当にこの神様を敬う心、恐れる心、これをしっかりと握りしめて、ますます神様から喜ばれていく皆さんであってほしいのです。
このヨブ、物質的に非常に祝福されておりまして、彼は東の人々の中で一番の有力者であったというふうに書いてあります。ですから、神様を恐れ敬う人になればなっていくほど、神様から喜ばれる。物質面においても祝福されていく人になっていきます。
さらに4節、5節にこの彼の息子たち、子どもたちの人となりについて記されているのですが、4節、「彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の順番の日に家で宴会を開き、人を遣わして彼らの3人の姉妹も招き、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。」
このヨブの子どもたちについて、この一節に記されているのですが、聖書という永遠の書物に記された彼らの生涯を1行であらわすハイライトは何だったか。それは、互いに行き来していた、誕生日に宴会を開いて、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。・・・これが、この子どもたちについての人生のハイライトです。皆さんが永遠の書物に記される皆さんの人生のハイライトは、一行で記すなら、何になるでしょうか。ある人の人生のハイライトは「親がお金持ちだった。自分の誕生日に年に何度も宴会を開いて、よく飲んだり食べたりしていた」というこの一行しか記されない人生になってしまうかもしれません。皆さんはそうならないでほしいのです。ここにいる皆さんは本当に日々、礼拝して、神様を恐れ敬って、神様のために働いた、そのように記されるのが、ここにいる皆さんだと思います。でも、ある人にとっては、永遠の書物に記されるのがただ飲み食いした、というだけで終わる人も、またいるわけです。
さらに続きを見ますと、この子どもたちの人となりがさらに伺えるのですが、「宴会の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別した。朝早く起きて、彼ら一人一人のためにそれぞれの全焼のささげ物をささげたのである。ヨブは『もしかすると息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」
父親であるヨブは子どもたちのためにとりなし祈りました。とりなし、これはとても素晴らしい性質です。事実、ヨブはこのとりなしの性質のゆえに、最終章において祝福されたのです。友人たちのためにとりなしに立った結果、神様が彼の祝福を戻して、以前の人生の2倍祝福されたと書いてあります。皆さんも本当に相手が誰であれとりなす心、これを持つならば、それは祝福される性質です。
父親ヨブはこの息子たちについて、ある種の恐れがあったのです。もしかしたら罪に陥って心の中で神を呪ったかもしれない。ヨブは何の根拠もなくこういうふうに言ったわけではないと思います。そういう節が子どもたちにあったからなのでしょう。それでそういうふうに祈ったのですが、これは後手に回る祈りです。先手を打つ対応ではなく、後手に回るのです。先手を打つというのは、もうこの息子たちがそういう罪に陥らないように、しっかりと神様を恐れ敬う心を持って諭して教育するべきです。子どもたちにはしっかりと主を恐れ敬うということ。そしてまた、もし罪を犯したのであるならば、お父さんが祈るのではなく、むしろ本人自身がしっかりと罪を悔いて、改めて主を恐れる歩みをもってこそ、悪魔サタンにタッチされない、しっかりと災いの日に守られる、そういう性質をしっかりと身につけられるのだよということを子どもたちに教えるべきです。けれどもヨブはそういうことを教えたとは書いておらず、「息子たちがもしかしたら心の中で神を呪ったかもしれない」から全焼のいけにえをささげたというふうに書いてあります。
そんなこんなしているある日、1章6節を見ますと場面が変わります。私たち人間には計り知れない天の情景が書かれてあるのです。天における舞台裏。私たちの目に見える舞台表に対して、真理の世界の舞台裏があるのです。ヨブ記、誰が書いたのかは不明ですけれども、しかし神様からの啓示を得て書かれたこのヨブ記には、しっかりとこの舞台裏にはこういう背景があるのだよということがあるのです。その天の舞台裏においては、天で開かれる天上会議の情景が公開されております。
そして、ここに集うのは、6節を見ますと、「ある日、神の子らがやってきて、主の前に立った。サタンもやってきて、彼らの中にいた。」と書いてあります。驚くべきことに、この天の会議に集うのは、まず神の子ら、ヘブライ語で「ベネー・ハーエロヒム」、神の子たちという表現がされております。御使いであったり、また天的な、霊的な存在であったり、人間ではないそういう存在たち、それと同時にサタンもそこに来ているのです。
サタンは勝手にこの天の会議に乱入したのではありません。ダンテの神曲という作品においては、悪魔が勝手に神のその会議に乱入して、神様に挑戦状を叩きつけるような、神様がこのサタンの挑発にのったかのような、そういう表現があるのですが、実際の真理の世界はそういうことではありません。この悪魔サタンさえも、神様の許可なしにはこの天上会議に入ることはできませんし、また、この神様とサタンの力関係、勢力図、それは全くもって月とスッポン以上の差があります。夜中の映画とか漫画などではサタンとか悪魔が何か神様と対等な戦力を持っていて、あたかもサタンにも神様に匹敵するような力があるように描かれたりすることが多いのですが、それは真理においては誤りです。サタンはもう神様の使いであるミカエルにさえも勝てないその程度の力であり、神様はお言葉一つでその悪魔の手足をもぎ取ってしまうぐらいの力があります。
創世記3章において、神様が蛇を呪った時、蛇はそれまで手足があったようですが、「お前はもう腹ばいで、一生、塵を食べ物にしなくてはならない」。ですから、神様はお言葉一つで悪魔をいくらでもなぎ倒すことができるのですが、しかしあいにく人間が自由意志でもって、悪魔サタンの言葉の方を選んでしまったから、だからあえて今悪魔サタンを生かされていて、この人間が一体どちらを選ぶか、そのために時が定まった時に至るまで、悪魔サタンを泳がされているに過ぎないのです。
本当に私たちは「神様、なんで悪魔サタンを一気にやっつけないのか」と思うかもしれないのですが、そうはいかないのです。もしある夫婦がいて、奥さんの方が旦那さんを裏切って別の男に走った。旦那さんの方はとても力があって、その裏切った男をいくらでもいつでもやっつけることができるけれども、じゃあだからといって、その力ある旦那さんが、その裏切った奥さんとまたその間男をすぐにやっつけたら、それで解決するでしょうか。そうではないのです。奥さんを取り戻すためには、奥さん自身の自由意志で間男を選ぶか、それとも自分を選ぶか、あえて泳がせなくてはならないのです。その奥さんが自由意志でもって旦那である自分を選んだならば、それで大解決。けれどももし間男の方を選んでしまったら、間男とともに滅びることになります。
神様は私たちに一体どっちを選ぶか、サタンの言葉を選んで神様を捨てるのか、それとも神様を選ぶのか、真の主人として一体どっちをあなたは選ぶのか。それを選ばせるために、あえて泳がされているのです。悪魔サタンはそれに過ぎないのです。この悪魔サタンは呪われて、そして地を這いずり回って、地を行き巡って歩き回る、そういう存在にならされました。「主はサタンに言われた。『お前はどこから来たのか。』サタンは主に答えた。『地を行き巡り、そこを歩き回ってきました。』」
創世記3章以降、悪魔サタンはこの地を行き巡る存在、全知全能ではないのです。創世記3章において、蛇は塵を食い物にしていくようになりましたが、私たち人間の組成はもともと塵です。神の息がない人間は塵に過ぎませんし、蛇の獲物にされる存在でしかありません。けれども、私たち人間、いかに塵というものでも、イエス様を信じて神の子になるのであるならば、神様がその人間をその信仰のゆえに守って、そして一切悪魔サタンが囲いを越えられないように、神様が悪魔サタンがタッチできないように囲いを置いて、私たちを守ってくださるのです。
冒頭で宣言したIペテロ1章5節ですが、「あなたがたは信仰により、神の御力によって守られており」というふうに書いてあります。信仰によって神の力によって守られると書いてあります。悪魔サタンの力から守るドアバリアは、信仰です。信仰によって皆さんは悪魔サタンから守られます。
そしてこの悪魔サタンは地を這いずり回って、兄弟姉妹を訴える者なのです。
8節の方を見ますと、「主はサタンに仰せられた。『お前はわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は地上に一人もいない。』」ここで会話を切り出したのはサタンの方でなく、神様の方からでした。神様はこのヨブについて自慢話をまず切り出したのです。悪魔サタンに「お前、ヨブを見たか」、まるで親が我が子を自慢するかのように「見たか、ヨブを」というふうに。
皆さん自身も、皆さん一人一人の信仰を神様が見ておられます。皆さんが本当に信仰において凛々しく立った時、神様は天から「見たか」「見たか」というふうに、皆さんのことを神様から言われるようになってください。本当に信仰をしっかりと握りしめてあげるならば、神様から自慢されるものになります。その皆さん一人一人の小さな歩みを天から見ておられ、天上会議において、そこに列席している一員たちに自慢してくださるんですね。
9節を見ますと、「サタンは主に答えた。『ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。あなたが彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに垣を巡らせたではありませんか。あなたが彼の手の業を祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです』」(ヨブ1:9)とあります。
サタンは日夜、兄弟姉妹を訴える者です。サタンはこう告発しました。「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか」。ですからサタンの主張はこうです。「ヨブが神を恐れているのは、あなたが祝福をしてくださっているからじゃないですか。ヨブがあなたを拝んでいるのは、ただ単に祝福が欲しいから。財産だとか健康だとか、それが増し加えられたいから、ただそれだけで神様を恐れ敬っているんじゃないですか」。「あなたがその垣を取り除いてください。そうすれば、果たしてヨブがあなたを恐れ敬うかどうか、それを知ることができますよ」というふうに訴えるんですね。
このサタンは、「あなたが彼の周り、彼の家の周り、彼の財産の周りに垣を巡らされた」というふうに、3回も繰り返して言っています。この「垣」、原語ではヘブライ語で「スーク」と言います。コーエンでは「アドナイ・シュク・バラク」の法則というふうに学びました。神様がその家と持ち物と財産に、くまなくこの垣を巡らしてくださって、だからサタンは手出しができなかった。信仰ゆえに、神様が彼に垣を巡らしたのです。
ですから、サタンが訴えるのはお門違いです。ヨブの信仰のゆえに神様が垣を巡らされたのに、それを持っているから「ヨブはあなたを敬っている」と言うんですね。本当に私たちも気をつけるべきです。皆さんは何故に神様を敬っているでしょうか。財産が守られるから、祝福されるからということ、そこがサタンがついてくるポイントです。けれどもヨブは、本当にこの点で誤ってはいませんでした。
確かに神様は許可を下します。11節から見ますと、「しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと面と向かってあなたを呪うに違いありません。主はサタンに言われた。『では、彼の財産をすべてお前の手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない』。そこでサタンは主の前から出て行った」(ヨブ1:11-12)。
ここで神様はサタンの挑発に乗ったかのように見えますが、実は違うんですね。以前、ヨブ記のキアズム構造を見ました。最初と最後を見たところ、神様がこのヨブをより一層2倍に祝福され、そしてヨブが以前よりも神様と親しく親密に交わるようになる。その内容がこのヨブ記の真ん中にあったということを見ましたね。神様がこの悪魔サタンの挑発が悔しくて乗ったんじゃありません。ヨブをさらに立て上げるためです。サタンなんかなんとも思っていないんです。むしろヨブのことをより一層立て上げるために、サタンを道具として用いた。これが正しい構図ですね。
注目するべきなのは12節で、神様が一線を敷かれていることです。その一線というのは「ただし彼自身には手を伸ばしてはならない」と、しっかりとサタンに釘を刺しているところ。サタンは釘を刺される側、神様はこの悪魔サタンの行動に明確に境界線をびちっと敷くお方です。ですから私たちはこの神様の法則に守られています。これを神様の「サメク」の囲い守りと言います。サメクはこういう形をしている、円の形をしたヘブライ文字です。その囲い守りの中に、神様がしっかりと守っておられる。
ですから皆さん、いろいろなことが人生の中で起こるでしょう。「なんでこんなことが」と思っても、それもしっかりと神様の守り、囲いの中において守られていることであり、決して皆さんが悪魔サタンや、あるいは誰か悪意ある人間の好きにさせられること、その自由にさせられるものではありません。むしろその背後にしっかりと神様の境界線が敷かれていて、その境界以上にはその悪人もサタンも超えることができないものです。
結局、私たちを守るもの、それは信仰です。第一ペテロ1:5に「あなた方は信仰により神の御力によって守られており、終わりの時に表されるように用意されている救いをいただくのです」とあります。ヨブにはそれがありました。だから神様の囲いの中で守られておりました。
けれども、後になってわかるのは、ヨブの子どもたちにはその囲いがなかったことです。もし子どもたちの中の一人でもしっかりと信仰を持っている子どもがいたら、その子供は守られたことでしょう。けれども、あいにくこの時、子どもたちは全滅してしまいます。
イスラエルの王の中にヤロブアムという悪どい王がいます。神様から「もしあなたが神様の御教えを守るならば、ダビデに匹敵する祝福があなたのものになり、子孫は代々続くだろう」と言われていたにもかかわらず、彼は神様から離れて偶像礼拝を人々にさせてしまい、結局その子孫は絶たれてしまうんですけれども、このヤロブアムの子供の中で唯一アビヤという子だけはまともだったんですね。彼は王の子としてまともに葬られますが、他の子孫は野の犬に死体が食われるというような扱いを受けます。
いかに父親が悪くても、子供の中で信仰がまともな子供はしっかりと神様の目に留められて、神様の守りと祝福があるんですけれども、結局、人を本人自身を守るのは信仰なんですね、本当に。ですから、私たちの子供教育において、しっかりと本人自身が信仰によって独り立ちするまで教育するということ、これが私たちの務めです。皆さん一人一人も、本当にこの信仰を自分自身で保って、そしてまた子どもたちに信仰を受け継いでいきましょう。
今日の御言葉からわかること。ヨブ自身の信仰が元にあったからこそ、ヨブをこのように神様に自慢話をさせるまでになりました。どうか皆さん自身も、本当にこの神様を恐れる信仰を持ちましょう。神様こそが皆さんにとっての相続財産、皆さんにとってのお給料です。この神様を恐れ敬う人に与えられる祝福は非常に大きいものです。以前学んだ創世記15章で、アブラハムに対して「私があなたの盾である。あなたの甚だ大きい報酬は私自身だ」ということを見ましたけれども、主が皆さんの報酬です。この主が報酬であるのであるならば、皆さんは主の囲いの中で守られて、決して皆さんが悪魔にタッチされることはありません。どうかこの主を報酬とし、主によって祝福の人生を歩んでいく皆さんでありますように。
【結論】
ヨブは生まれつき完全な人だったのではなく、日々神を恐れ悪から離れようと努める中で誠実でまっすぐな人になっていきました。私たちも同じように、日々神様を恐れ敬う心を持ち続けることで、神様から喜ばれる者へと成長していくことができます。また、悪魔サタンは神様の許可なしには何もできない存在であり、信仰によって私たちは神の御力に守られています。神様は信仰を持つ者の周りに確かな「垣(囲い)」を巡らせて守ってくださり、サタンの訴えにはお門違いな面があることも示されました。私たちを本当に守るのは財産や環境ではなく、信仰そのものです。子どもたちに信仰を受け継がせる責任も含め、主ご自身を報酬として恐れ敬う信仰を持ち続け、恐れることなく主を選び続けていきましょう。
ヨブ記は難しい?難解?いいえ!(ヨブ記1:1)
メッセージ音声
概要
ヨブ記は難解で理不尽に思える書物だが、ヘブライ思考的に最初と最後を見比べる(キアズム)ことで、その真の結論が「神は慈愛に富み、憐れみに満ちておられる」ということだとわかる。人間の議論による崇高な言葉よりも、神との親密なとりなしの祈りこそが幸いへの道である。
聖書箇所
ヨブ1:1、ヨブ12:9、ヨブ42:17、ヤコブ5:11
慰めの言葉
神様は気まぐれに人に災いを起こすお方ではなく、私たちを憐れみ深く、忍耐深く、恵みを施そうとして待っておられる方である。
励ましの言葉
神様と喧嘩をしてでも親密に関わろうとすることは幸いなことである。神様から背を向け、無視して生きることこそが一番良くない。
勧めの言葉
聖書が分からない時は、まず最初と最後を読むこと。それでも分からなければコンテキスト(前後の節)、インターテキスト(前後の章)、インフラテキスト(他の書物)を見ること。
悔い改めの促しの言葉
人間の議論、崇高そうに見える言葉のやりとりの中にどれだけ忌まわしいものが潜んでいるかを、自分も含めて知り、悔い改めることに信仰の中心を置くべきである。
***詳細***
ヨブ記は擬人の苦難というテーマを扱った文献として知られています。ウィキペディアにもそう書いてありますが、一般的には難しい、崇高的な、哲学的なことが書かれていると思われがちです。でも皆さん、ヘブライ思考を学びましたね。ヘブライ思考で感じるのは、最初と最後のキアズムです。
ヨブ記の1章1節ではこう書いてあります。「この鬱(ウツ)の地にヨブという人がいた。この人は誠実で真っ直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」そしてヨブ記の最後、42章17節にはこう書いてあります。「こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。」
ここを見ますと、ヨブ記が理不尽なこと、不条理なことが書いてあるから好きだという人には、その考えは当てはまりません。最初はヨブが誠実で神を恐れて悪から離れていたこと、最後はヨブが満ち足りた生涯であったこと。その真ん中にサンドイッチされたのがヨブの苦難です。ヨブの人生からすれば、苦難の後にもう140年生きたのです。ヨブが苦難を受けたのは70歳の時だという人もいますが、そうだとすると210年も生きたことになり、しかもその大部分は幸せな人生だったということが分かります。
キム先生が言っていたのですが、聖書が分からなかったら、最初と最後を読みなさいということと、もう一つ、聖書の別の箇所を読むと分かりやすいということです。聖書本体はテキストと言いますが、それに関わる他のテキスト、一番身近な前後の節はコンテキストと言います。分からなかったらコンテキストを見なさい。それでも分からなかったらインターテキスト、章と章、前の章と後の章を見なさい。あるいはヨブ記の他の章を見なさい。それでも分からなかったらインフラテキスト、つまり他の書、新約と旧約をまたいで、それについての説明がどう書いてあるか見なさい。これがヘブライ思考的な聖書の見方です。答えは必ず書いてあると、キム先生も菅先生もおっしゃっていました。
このヨブ記に関してのインフラテキストが、冒頭で宣言したヤコブ書5章11節です。新約によって唯一ヨブについて言及されているのがそこです。そこにおけるヨブ記の結論はこう書いてあります。「見なさい、耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなた方はヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられます。」ヨブ記単体を見ますと、神様が恐ろしい、理不尽なことを仕掛けるんじゃないかと思う人が大勢いますが、聖書の結論は、神様はこのヨブを通して慈愛に富み、憐れみに満ちておられるお方だということです。
ヨブ記が難しく感じられる理由の一つは、3章から最後の章まで、詩文体という特別な文体で書かれているからです。詩篇と同じ文体です。詩篇は読んでいて感動し、共感しますね。しかしヨブ記は、同じ詩篇と同じ文体で書かれているにもかかわらず、感動する人はなかなかいません。感動どころか読んでいてうんざりしてくる人も多いかと思います。
詩篇の場合はそのまま読んでいて「ああ、共感できるな」と自分の祈りを重ねられますが、このヨブ記は詩文体で書かれてあって崇高そうなことが書かれています。この崇高な文体で書かれてある内容は、人間の知恵、人間の哲学、それに基づく議論なのです。もう一つ、うんざりする理由は、この詩文体で書かれてある部分において主の御名がほぼないことです。ヨブ記の3章から37章まで、この長い議論の中で主の御名がたった1回しか出てきません。それが出てくるのはヨブ記12章9節のヨブの言葉だけです。ですから皆さん、キリスト教会の中にいたとしても、主の御名がない人間的な哲学議論、難しい議論は人をうんざりさせるのです。
ヨブは創造主に対して、友人に対して詩文体を用いて崇高な言葉で、自分が正しい、主は間違ってる、友人たちお前たちの方が間違ってるんだと、議論で打ち負かそうとしているのです。もし皆さんがヨブのように、私は悪くない、創造主の方が悪いんだという祈りを延々としていると、怒りが積み重なって浸透していき、ついには圧倒的な力によって打ちのめされることになってしまいます。皆さんは詩篇のように、「主よ、あなたが主です、どうか私を憐れんでください」と祈るのであれば、詩篇が示す幸いに与ることができます。
このヨブ記の議論を読んでいくと、なぜキリスト者の中にもうんざりさせるような崇高な感じの人がいるのか、その正体が分かってきます。また、最初は素晴らしかったヨブが、友人たちとの議論を重ねていくうちに、だんだんくだらない土俵に落ち込んでいってしまう。義人をこんな風に貶めてしまう原因は何かも、このヨブ記から分かってきます。
しかも、この議論の中には主の御名は出てこないけれども、実際は全部見えているのです。ヨブが徐々にイエス様のような執り成し手を求めるかのような変化が見られてきます。「私には弁護士が必要だ、私を憐れんでくれる人が必要だ」と。そして主を求めるようになっていきますが、さらに友人たちの議論によって怒りがある時点で爆発し、今度は神様に対して喧嘩を吹きかけるようになっていくのです。でも喧嘩であろうとも、神様と親密に関わろうとすることが幸いなことです。神様に対して納得がいかなかったら、「なんでですか」と吹きかければいいのです。祈りの中で親密になっていけばいいのです。一番良くないのは、神様から背を向けて、神様を無視して、神様なしで別次元で生きることです。喧嘩でも神様と関わることは良いことです。どうせなら「神様、あなたを愛します、あなたに従います」と言えることが最も幸いです。
ヨブは非の打ち所がない、東の第一の信仰者であり、東の第一の祝福を受けた人でした。けれども災いを受けるようになっていきます。今の私たちだけでなく、古代の人々もこう考えていました。何か悪いことが起きるのは、その人が悪いことをしたからだ、罰が当たったんだ、因果応報だと。ヨブの友人たちもこぞってこの因果応報を主張し、「あなたは何か悪いことをしたからこういうことが起きたんだろう」と言い続けますが、ヨブは全くもって身に覚えがなかったのです。
このヨブ記の起承転結を見ますと、まず「起」の部分は1章と2章です。天上で会議が行われ、サタンも登場します。サタンはヨブについて「果たしてヨブは理由もなく神様を恐れているでしょうか」と疑問を投げかけます。「どうせヨブが神様を恐れているのは、あなたが祝福の囲いを置いているからじゃないですか」と。「一つヨブから、その加護を取ってごらんなさい。たちまちヨブはあなたを呪うでしょう」と。神様はそれを許可し、ヨブはたった1日にして全財産を失い、愛する子どもたちを失います。それでもヨブは一切神様を呪うようなことはしませんでした。ヨブの妻は「神を呪って死になさい」とまで言いますが、それでも呪わなかったのです。
「承」の部分は3章から31章、終わりなき論争のところです。友人たちは「お前は何か悪いことをしたから災いにあってるのだ」と言い続け、ヨブは「違う」と反論します。それが何巡もするうちにどんどん激しくなり、ついにヨブが切れてしまいます。正しかったヨブが「神様、あなたの方が間違ってる、私はあなたと議論したい」というふうになっていってしまうのです。人間だけの議論、いかに崇高そうな詩文体でつじつまが合っているように見えるものであっても、ヨブをこんな風に痛めつけて追い詰めてしまう力があります。ここにヨブ記の警告があるのです。
「転」は神様の登場です。神様がついに嵐の中からヨブに語りかけていきます。「私が地の基を据えた時、あなたは一体どこにいたのか。暁の星々が歌った時、お前はそこにいたのか」と、圧倒的な膨大な質問を投げかけていきます。神様はヨブの疑問に対して一切何も答えていません。ただ神様の圧倒的な臨在、力、その摂理の奥深さと力強さをただ示しただけでした。この神様の圧倒的な御業と支配、創造の素晴らしさの前に、ヨブの疑問はどんどん解けていきます。
「結」は42章です。ヨブはついに悔い改めて塵と灰の中にひれ伏します。そしてヨブの祝福が帰ってくるのですが、そのトリガーは、ヨブの悔い改めではなく、なんとヨブが自分を責め続けてきた友人たちのために執り成し祈ったその瞬間だったと書いてあるのです。私たちに必要なのは議論ではなく、執り成しです。これが祝福が帰ってくるコツだということも、ヨブ記が示すところです。
実際、ヨブは苦難のあと祝福されて、その祝福を140年も味わって満ち足りた生涯を送りました。ヨブ記の結論はヤコブ書にありました。「あなた方はヨブの忍耐のことを聞いております。主によってその結末を知っています。主は慈愛に富み、憐れみに満ちておられます。」確かに神様は恐ろしい形でヨブに現れました。けれども、主と本当に面と向かって出会ったヨブ、悔い改めたヨブ、自分をひどい目に遭わせた友人たちのために執り成した後に、主はこのように幸いを返してくださいました。
神様は皆さんに気まぐれに災いを起こすお方ではありません。ある人生の瞬間だけを切り取ってみると、神様が災いしか起こさないんじゃないかと思えることがあるかもしれませんが、神様は憐れみ深く、忍耐深く、恵みを施そうとして待っておられる方です。なぜ神様はヨブに災いを起こしたのか。それはさらなる幸いの深みにヨブを持っていくために、あえてサタンの言葉を許可し、ヨブをもっと深く神様と親密に交わらせ、もっと祝福の人生を送ってほしいから、あえて人生のある瞬間を切り取ってそうされたのです。
ヨブが受け取った本当の報酬は、持ち物が2倍になったということではありません。嵐の中から語りかけられた主との出会い、これが何よりの宝でした。生きた出会いによって、ヨブの人生観が変えられました。皆さんも主こそ宝です。主こそ皆さんの報酬です。皆さんは本当に主と親密に交わって、出会って、時には喧嘩をするのもいいでしょうが、主と仲良しで親密に交わって幸いなこれからを歩んでいく皆さんでありますように。
結論
ヨブ記は理解しにくく、辛い書物であるがゆえに、読みたくないと感じるクリスチャンも少なくありません。しかしこの書には、人間の議論の中にどれほど忌まわしいものが潜んでいるか、そして神様の恵み深さがどれほど大きいかが示されています。義人は一人もいない中で、私たちが正しく歩めるとすれば、それはすべて神様の備えによるものです。悔いる心を持ち、嫌な相手のためにさえ執り成し祈ることの幸いを、ヨブ記から学び取り、苦難のただ中にあっても、以前のものは過ぎ去り、新しくされるという素晴らしさに与ることができますように祈ります。
エステル記9:20-10:3
メッセージ音声
【概要】
エステル記は、神の御名が直接記されていなくても、神がご自身の民を絶望的な状況から救い出し、悲しみを喜びに変えてくださることを示す壮大な物語です。私たちも、神が人生でしてくださった救いの御業を忘れず、次世代へ語り継ぎ、どんな悪しき状況でもすべてを益としてくださる神に信頼し続けることの大切さを学びます。
【聖書箇所】
-
エス 6:1-14
-
エス 7:1-10
-
エス 8:1-17
-
エス 9:1-32
-
エス 10:1-3
-
創 50:20
-
ヘブ 6:10
-
ロマ 8:28
【慰めの言葉】
神の御名が目に見えなくとも、主は私たちの苦難のただ中で静かに、しかし確かに守っておられます。あなたが流した涙や汗、困難の中での信仰と奉仕を、神は決して忘れることはありません。それらは全て神の永遠の書物に記されており、やがて必ず報いてくださいます。
【励ましの言葉】
神を愛する人、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となります。今起こっているどんな困難なことも、神様が益へと変え、神の栄光が現されることを信じましょう。
【勧めの言葉】
神様がしてくださった素晴らしい救いの御業を、一時の喜びで終わらせず、人生の出来事の一つひとつに「神様がしてくださった」というしるしをつけ、子や孫、次の世代へと語り継いでいきましょう。モルデカイのように、神の民の幸福を求め、全世界に平和の福音を告げ知らせる者となりましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
神を前面に出せずにいる弱さを認め、主に憐れみを求め、日々の生活の中で主を第一にする心へと立ち返りましょう。
【***詳細***】
皆さん、こんにちは。エステル記もいよいよ本日で最後となります。最初に、お祈りから始めたいと思います。
「イエス様、今日でしょうか。主よ、あなたが輝いてくださる主であることを信頼して、待ち望む者でありますように。ハレルヤ、主よ、感謝します。」主が私たちの日々の歩みに光を与えてくださることを信頼します。また、検査に臨む阿部先生の上に主が共にいてくださり、結果が最善となりますように、祝福をお祈りいたします。「今日一日をイエス・キリストによって数えられて、素晴らしい一日を過ごさせてください。私たちの生活のすべてを守ってくださる主イエス・キリストの御名によって感謝してお祈りいたしました。アーメン。」
愛する天の父なる神様、あなたが私たちを勝利させ、解放してくださったことを感謝いたします。私たちも主イエス様、あなたに続く者とならせてください。どうか、今から語るこのしもべの唇を清め、また聞く一人ひとりの耳を清めてください。私たち一同が、あなたの命と恵みに豊かにあずかることができますように。一つも漏らすことなく、あなたの恵みを受け取ることができますように。主よ、あなたご自身がお語りください。このしもべを、あなたの言葉を取り次ぐ管としてお用いください。初めから終わりまで、すべてをあなたの支配の御手にゆだねて、私たちの愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
ハレルヤ!素晴らしい主、王の王なる私たちの主イエス・キリストの御名を褒め称え、賛美いたします。
今日、エステル記の最後の箇所を皆さんは読んでくださいました。エステル記の結びにおいて、主が苦難と流浪の中にいたユダヤ人たちを、不思議な方法で守り、栄光を与え、プリムの祭りを与えられたことに感謝を捧げます。この書物全体を貫いているテーマは、「悲しみが喜びに変えられた」ということです。灰の代わりに冠が与えられ、嘆きが祝いの日に変わりました。
もともと、エステルは一人の孤児でした。しかし、モルデカイによって神様の御言葉で養われ、ついには王妃にまでなりました。モルデカイもまた、初めは王の門に座る一人の役人に過ぎませんでした。そして、ユダヤの民全体が、ハマンの悪しき企みによって滅ぼされることが、決して変えることのできない法令によって定められてしまいました。彼らはまさに死ぬべき運命にあったのです。
しかし、その日は一転して、神の民の敵が打ち破られ、神の民が勝利する日となりました。それが、アダルの月の14日と15日です。この救いを記念して、モルデカイは祝宴と喜びの日を定める法令を書き記しました。
モルデカイはこれらのことを書き記して、クセルクセス王のすべての州の、近いところや遠いところにいるすべてのユダヤ人に書簡を送った。それは、ユダヤ人が毎年、アダルの月の十四日と十五日を、自分たちの敵からの安息を得た日、悲しみが喜びに、嘆きが祝いの日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにご馳走を送り交わし、貧しい人々に贈り物をする日と定めるためであった。(エス 9:20-22)
これは、神様の救いを一瞬の喜びで終わらせなかったということです。「ああ、助かってよかったね」「命拾いしたね」で終わらせるのではなく、神様がこのようにして救ってくださったという事実を、後の世代に至るまで覚え続けるように定めたのです。
私たちは、苦しかったことはよく覚えていても、その出来事に「神様が助けてくださった」というラベルを貼るのを忘れがちです。「あの時は辛かったな」で終わってしまい、そこに働かれた神様を思い出さないことがよくあります。しかし、私たちは、すべての出来事に対して「神様が助けてくださったんだ」というラベルをしっかりと貼るべきです。
旧約聖書のヨセフは、いつもそのようにしていました。兄たちからどんなにひどい仕打ちを受けても、ポティファルの妻から濡れ衣を着せられても、彼は決して「神様は」という視点を手放しませんでした。その結果、彼はエジプトで高く上げられました。モルデカイも同じです。彼もそのような信仰の性質を持っていたからこそ、神様に大いに用いられ、高く上げられたのです。そして、その高くされた地位を用いて、神様がしてくださった偉大な御業を多くの人々に覚えさせるための記念日を制定しました。
ユダヤ人は、すでに守り始めていたことであるが、モルデカイが彼らに書き送ったことを受け入れた。実に、アガグ人ハメダタの子で、全ユダヤ人の敵ハマンは、ユダヤ人を根絶やしにしようとたくらんで、プル、すなわち、くじを引いて、彼らをかき乱し、根絶やしにしようとしたが、そのことが王の耳に入ったとき、王は書簡で命じ、ハマンがユダヤ人に対してたくらんだ悪い計略をハマン自身の頭上に返し、彼とその子らを柱にかけるようにさせたのであった。(エス 9:23-25)
興味深いことに、ユダヤ人たちはモルデカイが法令として定める前から、自発的にこの記念日を祝い始めていました。これが神の民の姿です。私たちも神の民として、神様がしてくださった良いことを、子どもたちに、孫たちに、そして次の世代へとずっと伝えていくべきなのです。
そして25節、「そのことが王の耳に入ったとき」とあります。これは、エステルが王に願い出たことを指しています。エステルの嘆願によって、王はハマンの企みの全貌を知り、その悪しき計略をハマン自身に返したのです。私たちの役割もこれと同じです。私たちの仕事は、王の王なるお方、主イエス・キリストに「嘆願する」ことです。悪しき者たちを裁くのは私たちの仕事ではありません。それは、王であるイエス様の仕事です。ですから私たちは、今の日本を覆う悪霊やサタンの働きを、イエス様に訴えるのです。そうすれば、王であるイエス様ご自身が、悪に敵対する者たちを何とかしてくださいます。
こうして「プリムの祭り」が制定されました。「プリム」とは、ヘブル語でくじを意味する「プル」の複数形です。この「プル(くじ)」は、もともとハマンがユダヤ人を滅ぼす日を決めるために使った道具でした。しかし、その滅びの道具であったはずの名前が、逆に救いを記念する祭りの名前となったのです。
私たちの主イエス様がかけられた十字架も、もともとは最も残虐な死刑の道具でした。しかし、今やそれは私たちにとって救いの記念のしるしとなっています。神様は、私たちに降りかかるあらゆる悪や良くないことを、逆転させて益に変えてくださるお方です。そのことを覚え、ユダヤ人は「プリムの祭り」を制定したのです。私たちの周りには、悪を謀る者がいるかもしれません。しかし、神様はそれを益に変えてくださるお方です。ヨセフは、自分に悪を謀った兄たちに対して、後にこう言いました。
あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。(創 50:20)
神様は、皆さん一人ひとりに対しても同じです。皆さんに降りかかるあらゆる悪を、良きこと、益に変えてくださるお方なのです。ユダヤ人は、この救いの記憶が子孫の中で絶えてしまわないようにしました。
ユダヤ人は、自分たちとその子孫、および自分たちにつくすべての者たちが、その文書のとおりに、毎年定まった時にこの両日を守り行い、これを廃してはならないと定めた。また、この両日は代々、すべての家族、諸州、町々において記念され、祝われなければならないとし、これらのプリムの日がユダヤ人の間で廃されることがなく、この記憶が自分たちの子孫の中で絶えてしまわないようにした。(エス 9:27-28)
私たちクリスチャンも、神様からの祝福を自分たちの代だけで終わらせず、神様がどれほど良くしてくださったかを、代々子どもたちに教えていくべきです。プリムの祭りでは、ユダヤ人の間でこの物語が代々語り継がれ、劇が行われます。エステル役やモルデカイ役は大変な名誉なことだそうです。
この祭りを定着させるため、エステルとモルデカイはさらに書簡を送りました。
アビハイルの娘である王妃エステルとユダヤ人モルデカイが、プリムについてのこの第二の書簡を全権をもって書き記し、確かなものとした。この書簡は、平和と誠実の言葉をもって、クセルクセス王国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に送られ…(エス 9:29-31a)
ここで大切なのは、この書簡が「平和と誠実の言葉」(シャローム・ヴェ・エメット)をもって書かれたということです。「シャローム」は平和、平安。「エメット」は真実、誠実を意味します。彼らが伝えたかったのは、単に「敵に勝ったぞ」ということではありませんでした。神が与えてくださった「平安と真実」を伝えるべきなのです。私たちもモルデカイとエステルのように、このことを伝えていく者でありたいと思います。
では、一体どのようにしてこの逆転劇が起こったのでしょうか。エステル記は、神の御名が一度も出てこない特異な書ですが、その背後で主の御手が働いていることが全体から伝わってきます。
物語の転換点は、王が眠れなかった夜に始まります。
その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来させて、王の前で読ませた。そこには、モルデカイが…王を手にかけようとたくらんだことを告げたことが書いてあった。(エス 6:1-2)
この偶然のような出来事がきっかけで、モルデカイへの報いがなされることになります。ちょうどその時、ハマンはモルデカイを処刑するための柱を準備し、王に許可を願い出ようとしていました。しかし、王に呼ばれたハマンは、王が栄誉を与えたい人物をどう遇すべきか尋ねられます。自分自身のことだと勘違いしたハマンは、盛大な栄誉を与えるよう助言しますが、その栄誉はなんと、彼が憎むユダヤ人モルデカイに与えられることになったのです。
王はハマンに言った。『急いで、お前が言ったとおりに衣装と馬を持って行き、ユダヤ人モルデカイにそうせよ。…お前の言葉のうち、何一つ省いてはならない。』(エス 6:10)
そして、王妃エステルの二度目の宴で、ハマンの陰謀は完全に暴かれます。
王妃エステルは答えて言った。『王よ、もし王がよろしければ、私の命、そして私の民の命をお救いください。私たちは売られて、滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。』…王は言った。『それは誰だ。…』エステルは言った。『敵、憎む者は、この悪しきハマンです。』(エス 7:3-6)
恐れおののくハマンは、やがて彼自身がモルデカイのために用意した柱にかけられて滅びます。しかし物語はここで終わりません。ハマンの家はエステルに与えられ、モルデカイは王に次ぐ大臣の座に上げられました。そして、取り消し不能だったユダヤ人虐殺の勅令に対抗するため、ユダヤ人が自衛を許可する新しい勅令が全国に布告されました。
その日、ユダヤ人の敵たちは彼らを制し得ると思っていたが、事態は逆転し、ユダヤ人が憎む者たちを制した。(エス 9:1)
こうして、主の不思議な守りのもとで逆転が起こり、涙の日が喜びの日に変えられたのです。
続くエステル記10章には、モルデカイがどれほど偉大な人物になったかが記されています。
彼の権威と勇気によるすべての功績、王に重んじられたモルデカイの偉大さについての詳細は、それはメディアとペルシアの王の歴代誌に確かに記されている。(エス 10:2)
モルデカイの功績は、長い間、誰にも気づかれず、報われることがありませんでした。しかし、最終的には王の公式な歴史書にまで彼の偉大さが記されることになったのです。人は忘れても、神様は決して忘れません。
神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって神の御名のために示した愛を、お忘れになったりはなさいません。(ヘブ 6:10)
皆さんが捧げてきた奉仕、流してきた涙や汗、その一つ一つを神様は覚えておられ、神様の永遠の書物に記されています。特に困難な中で信仰を貫き、神様のために働くことは、非常に尊いことです。
エステル記の締めくくりは、こうなっています。
実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。(エス 10:3)
彼が何を求めたか、それが重要です。彼は「自分の民の幸福を求め」「全民族に平和を語った」のです。聖書的に「高くされる」とは、単に社会的な地位が上がることではありません。モルデカイのように、神の民の幸福のために働き、すべての人々に平和を告げ知らせる者となることです。私たちがそのような性質を持つなら、神様は皆さんを社会的に高くしてくださることもあるでしょう。
私たちもこの日本という国で、神様のことを前面に出すことがまだできないようなところがありますが、どうぞ憐れんでくださいと祈ります。しかし、ここで一つの御言葉をしっかり握りましょう。
神を愛する人々、すなわち、そのご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことが共に働いて益となることを私たちは知っています。(ロマ 8:28)
王の不眠、年代記の朗読、エステルの勇気、モルデカイの忠節、ハマンの計略の自滅——これらすべてが「すべてのことが共に働いて益となる」という御言葉の具体例です。目に見える状況がどうであっても、神は主権をもって導いておられます。私たちの日々でも、小さな出来事、望まない出来事、理解できない出来事が、主の大きな計画へとつながっているのです。ぜひ私たちもそれを忘れず、いつも主の名を覚え、感謝して、あなたを褒めたたえ、また次世代に伝える私たちとしてください。主よ、次世代の働きを助けてください。山田君の働きを導き、あなたの助けがありますように。信じます。感謝します。
最後に、祈りをもって終わりたいと思います。
愛する天の父なる神様。私たちもモルデカイのように、多くの神の民の平和を願い求め、また全世界の人々の平和を告げ知らせる者とならせてください。主イエス様、あなたは十字架にかかり、死に勝利されました。その勝利を私たちにも与えてくださり感謝します。戦いの勝敗はあなたにあります。私たちは自分の手で戦うのではなく、すべての戦いをあなたに委ねる賢い者でありますように。
今、世界で起こっている戦争の上に、平和の君であるあなたの力が及びますように。悪が根絶され、福音が掲げられますように。そして、私たちがいつも祈り求めている次世代の救いと、あなたの栄光が現される時が、今日来ますように。エステル記からいただいた多くの恵みに感謝して、私たちの愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【結論】
エステル記に神の御名が記されなくても、主の御手は確かに働いて、苦難を逆転させ、喜びに変えてくださいます。ローマ8:28の約束を握り、主の名を覚え、感謝と賛美を絶やさず、次世代へ主の御業を語り継ぎながら、2026年8月3日の今日も主に信頼して歩んでいきましょう。
逆転の主(エステル記9章)
メッセージ音声
【概要】
エステル9:1-19を通して、主が悪しき企てを一変させ、神の民に勝利と安息を与えられることを語る。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、罪と悪に対する霊的戦いであり、徹底して行うべきである。
【聖書箇所】
エステル9:1-19
エペソ6:10-13
【励ましの言葉】
-
主は逆転の主。悪の計画は一変し、神の民に勝利が与えられる。
-
キリストに堅く立つ者を悪は恐れる。主はバックアップしてくださる。
【戒めの言葉】
-
信仰は行いとともに実施するもの。行わない信仰は死んだも同然。
-
罪への妥協を残してはならない。徹底して根を断つこと。
【勧めの言葉】
-
神のすべての武具を身につけ、邪悪な日に対抗し、すべてを成し遂げて堅く立つこと。
-
戦いの動機を欲望に置かず、主の御旨の成就に置くこと。
【悔い改めの促しの言葉】
-
罪を惜しみ、後始末を怠る心を捨てる。主を恐れ、命を惜しむ者へと心を新たにする。
【***詳細***】
今日の箇所はエステル9:1-19です。まず、次の御言葉が宣言されました。「第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に王の命令とその法令が実施された。この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変してユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。」(エステル9:1)
この「一変して」という言葉は、エステル記全体を象徴し、また世界の歴史の最終的な方向をも示す言葉です。もともと私たちは罪と悪魔サタンに支配され、好き放題されていた者でした。しかしイエス・キリストが勝利し、救いの御旨を発布してくださったことにより、サタンの支配は一変します。以前の私たちは罪に支配されていましたが、イエス様にある者は勝利できるのです。主は一切の悪魔、サタン、罪の束縛から解放してくださる方です。
このアダルの月の十三日は、もともとハマンによりユダヤ人が滅ぼされると定められた日でした。けれども、その同じ日に「集まって身を守ってよい。敵を滅ぼし尽くしてよい。財産を奪ってもよい」という逆転の法令が公布され、ついにその日が来たとき、勝利したのは神の民であるユダヤ人側の圧倒的勝利でした。「一変して」という言葉の通り、悪の支配は主の勝利へと一転します。これはやがて世界全体において完成される現実です。今はその途上であり、キリストの完全勝利の実現に私たちも参加する時です。
彼らが勝利したのは、王が定めた法令を「実行」したからです。信仰は行いと共にあるべきものです。行わない信仰は死んだも同然です。実施しないならば、死と罪に飲み込まれます。しかし、御霊の法則に従って罪と悪魔に戦い続けるなら、「王の王」なる方がバックアップしてくださいます。かつてアハシュエロス王がユダヤ人を後押ししたように、私たちの主イエス・キリストが後押ししてくださり、その御支援のもと必ず勝利する戦いになります。罪に対する戦いはイエス・キリストによって必ず勝利する戦いです。
実際、記されている通り敵は神の民を恐れました。2節にはこうあります。「誰もユダヤ人に抵抗する者はいなかった。民は皆、ユダヤ人を恐れた。」(エステル9:2)キリストにしっかり立つ者を悪は恐れ惑い、逃げ隠れします。古代の戦いでも、主に従う神の民には恐れが生じ、圧勝することがありました。人間的に見て敵の装備が充実し、恐れが湧くことがあるかもしれません。しかし、実際に戦ってみると主が共におられるがゆえに容易に勝利することがあるのです。ヨシュアの時代も連戦連勝でした。ただ、アイの戦いだけは主の命令を守らず、主に伺わなかったために敗北しました。主の御言葉に従い続け、主の御旨に歩む限り連戦連勝—これが神の戦いです。
さらにこう記されています。「諸州の長官、総督、王の役人も皆、ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイを恐れたからである。というのは、モルデカイは王宮で勢力があり、その名声はすべての州に広がっており、モルデカイはますます勢力を伸ばす人物だったからである。」(エステル9:3-4)モルデカイは神を恐れ敬う者でした。主が彼を引き立て、有能にし、敵に対する恐れをも植え付けられました。
5節からは実際の戦いの描写です。「ユダヤ人は彼らの敵を皆、剣で撃ち殺し、虐殺して滅ぼし、自分たちを憎む者を思いのままに処分した。ユダヤ人はシュシャンの城でも五百人を殺して滅ぼし、また…ハマンの子十人を虐殺した。しかし、彼らは獲物には手をかけなかった。」(エステル9:5-10)現代の私たちに適用すると、それは人を害することではありません。私たちの戦いは「血肉に対するものではなく」(後述)心の中の罪、悪しき性質、悪魔の誘惑と戦うことです。徹底して罪を処分することが求められています。
繰り返し「彼らは獲物には手をかけなかった」と三度記されています(エステル9:10, 15, 16)。これは彼らの戦いの動機が奪い取る欲望ではなく、神の命令の成就であったことを示します。神の命令—アマレクの子孫を根絶やしにせよ—が数百年越しに果たされました。かつてサウルは惜しんで徹底しなかったため、後の世に災いの根が残り、ハマンの事件へとつながりました。ユダヤ人たちは今、神の命令を徹底して果たしているのです。私たちも戦いの動機を欲望に置いてはなりません。人類史が果たせなかった悪魔サタンに対する勝利を、キリストにあって歩む者として日々の罪の誘惑に対して戦い続けるべきです。徹底して打ち滅ぼし尽くし、勝利し尽くすことが求められます。
例え話として、タバコを捨ててもライターを捨てないなら、結局また負けるということが語られました。罪を捨てるなら、その罪につながる思考パターン、習慣も捨てなければなりません。徹底が鍵です。
11節以降では王とエステルの対話が続きます。「その日、シュシャンの城で殺された者の数が王に報告されると、王は王妃エステルに尋ねた。『ユダヤ人はシュシャンの城で五百人とハマンの子十人を殺して滅ぼした。王の他の諸州では、彼らはどうしたであろう。あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたはなおも何を望んでいるのか。それをかなえてやろう。』」(エステル9:11-12)王が先回りしてエステルの不安に応えます。エステルは答えます。「『もし王様よろしければ、明日もシュシャンにいるユダヤ人に今日の法令どおりにすることを許してください。またハマンの十人の子を柱にかけてください。』」(エステル9:13)王はそのようにせよと命じ、翌日さらに三百人の敵が滅ぼされました。「しかし、彼らは獲物には手をかけなかった。」(エステル9:15)
16節にはこうあります。「王の諸州にいる他のユダヤ人も団結して自分たちの命を守り、彼らの敵を除いて休みを得た…すなわち、自分たちを憎む者七万五千人を殺したが、獲物には手をかけなかった。」(エステル9:16)戦いの目的は命を守ることであり、その後には「休み」が与えられます。戦いは終わりなきものではなく、解放と安息へと向かいます。
17節から19節では、勝利後の祝宴が描かれます。「これはアダルの月の十三日のことであって、その十四日には休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。」(エステル9:17)「…それを喜び祝う日とし、互いにごちそうと贈り物を交わす日とした。」(エステル9:19)救われた喜び、安息、平安が大いに湧き起こりました。戦いの結果は人々に喜びをもたらし、神の民が悪に勝利して栄えていくための道が開かれます。
最後に、戦いの性質を明確にするためにエペソの御言葉が宣言されました。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいる諸々の悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。」(エペソ6:10-13)
今この時代、悪が主権や力を握りしめているように見えることがあります。しかし、皆さんは光の子として、御霊とともにキリストの言葉の剣を握り、勝利に次ぐ勝利へと進み、多くの人々を救う働きへと召されています。さらに祈りが捧げられました。主が先んじて勝利してくださったことへの感謝、キリストの側につき続けることへの願い、戦いに加わる勇気と徹底、今日一つでも罪に勝利し光の領域を広げる祈り。続いて、愚かさを取り除き、少し良くなったからと有頂天になって後始末を怠らないようにという願い。主の命令を恐れ敬い、人の顔色や権威を恐れず主を恐れる者となる祈り。ハマンは滅ぼすことに専念し、モルデカイとエステルは助けることに専念した—主は命を惜しむ者を御側に立たせてくださる、という確認。地域の教会、次世代、親子三代の礼拝のための祈り、癒しのための祈りも捧げられました。最後に主の御名を呼び求めて終わりました。
【結論】
主は逆転の主です。悪の計画は一変し、神の民に勝利と安息が与えられます。信仰を行いに移し、神の武具を身につけ、罪への妥協を残さず徹底して戦うなら、キリストの後押しのもと必ず勝利します。勝利の後には喜びと休みがあり、その喜びが共同体に広がります。今日、少なくとも一つの罪に勝利し、光の領域を広げていきましょう。
死の法令を打ち破る新しい法令(エステル記8:7-17)
メッセージ音声
【概要】
ハマンが定めた死の法令は、彼が死んでもなお生きています。しかし、王の王であるイエス・キリストが発布された「命の御霊の法則」によって、私たちは古い死の法則を打ち破り、勝利することができます。この良き知らせを受け取った私たちは、それを行動に移し、急いで世界に伝えていく使命があります。
【聖書箇所】
エステル8:7-17
ローマ8:1-2
イザヤ61
【励ましの言葉】
一度発布されてしまった死の法則は打ち消せませんが、それを打ち破る新たな「命の御霊の法則」がイエス様によって発布されました。私たちはこの新しい法則によって生き、死の法則に縛られることなく勝利することができます。
【勧めの言葉】
イエス・キリストが発布してくださった「命の御霊の法則」に日々乗り続けましょう。聞いただけで終わらせず、その法則を実際に行使して悪しきものを根絶し、全く新しい歩みを始めるべきです。そして、この良き知らせをまだ知らない人々に、急いで伝えていきましょう。
【***詳細***】
皆さん、こんにちは。エステル記8章7節から17節までを見ていきます。まず7節と8節を読みます。
アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った。「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、今、私はハマンの家をエステルに与え、彼は柱にかけられたではないか。あなたがたは、ユダヤ人について、あなたがたの良いと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、誰も取り消すことができないのだ。」(エステル8:7-8)
王の王であるイエス様が、囚われていた私たちを救い出し、命へと導いてくださることを感謝します。今日の御言葉には、素晴らしい法則が記されています。王の命令によって、一度発布されてしまった「死の命令」を打ち消す働きがここから始まります。
ハマンは死にましたが、彼が残した死の命令はまだ生きていました。私たちの人生にも、このようなことがあります。過去にあなたを傷つけた人がもう目の前にいなくても、その人が放った一言が、何十年も心に突き刺さって苦しめることがあります。問題の根本原因がなくなっても、その原因が放った法則が生き続け、私たちを死に追いやってしまうのです。これを放置すれば、死に飲み込まれてしまいます。
多くの人はこれに対処する術を知りませんが、私たちはイエス・キリストの勝利の福音によって、対処する術を知っています。主イエス・キリストは「命の御霊の法則」を発布してくださいました。それによって、私たちは悪しき法則を打ち消すことができるのです。悪しき者が残した死の法則、死の法令、死の言葉を打ち破ることができるのは、ただ王の王であるお方が発布した、新しい命の法令によってのみです。
8節でアハシュエロス王は言いました。「あなた方の良いと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。」一度発布されたメディア・ペルシアの法令は、王でさえ取り消すことができませんでした。そこで王が示した方法は、古い法令を消すのではなく、それを上回る新しい法令を王の名によって発布することでした。新しい言葉を宣言し、神の民が生きるための道を新しくつくりなさい、ということです。
これは、イエス様が私たちを救うために用いてくださった方法と全く同じです。人間に定められた死の法則は打ち消せません。しかし、この死の法則を打ち破る新たな法則が発布されるなら、私たちはもはや死の法則に縛られず、勝利し、新たな「命の御霊の法則」によって生きることができるのです。
ローマ人への手紙でこう宣言されています。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)
まず、キリスト・イエスにある者となることが大切です。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。(ローマ8:2)
私たちが「命の御霊の原理」のうちにあるなら、罪と死の原理から解放されているのです。この原理に乗り続ける必要があります。エステルの時代のユダヤ人も、王の名で発布される新しい救いの法令に従わなければ、結局殺されてしまいました。ハマンの法則はまだ生きていたからです。新しい法則を聞いて、実際に行使しなければ、ユダヤ人は死んでしまったのです。私たちも同じです。悪魔サタンが発布した罪と死の法令に対し、イエス・キリストが発布した「命の御霊の原理」に乗らなければ、滅ぼされてしまいます。日々、この法則にしっかりと乗り続けましょう。
その時、王の書記官が召集された。それは第三の月、すなわちシワンの月の二十三日であった。そして、すべてモルデカイが命じたとおりに、ユダヤ人と、太守や総督たち、およびホドからクシュまで百二十七州の首長たちとに証書が書き送られた。各州にはその文字で、各民族にはそのことばで、ユダヤ人にはその文字とことばで書き送られた。(エステル8:9)
良い知らせは、様々な言葉に翻訳され、早馬に乗って届けられました。福音が、一部の人だけでなく、一人ひとりに分かる言葉で届けられたのです。私たちも、この喜びの知らせを受け取り、それを行使できるように人々を導く必要があります。
モルデカイはアハシュエロス王の名で書き、王の指輪でそれに印を押し、その手紙を速く走る御用馬の早馬に乗る飛脚に託して送った。(エステル8:10)
モルデカイは自分の権威ではなく、王の名と王の印で書きました。私たちも福音を伝えるとき、自分の力ではなく、王の王なるキリストから届いた良い知らせをそのまま伝えるのです。
その中で王は、どの町のユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼし尽くすことを許し、また彼らの家財をかすめ奪うことも許した。(エステル8:11)
かつてハマンがユダヤ人に対して許可したことが、今や逆転しました。神の民の敵を根絶やしにすることが許可されたのです。しかし、これを聞いて「やった!」で終わってはいけません。モルデカイは「自分たちの命を守るために集まって」行動するように命じました。私たちも集まり、立ち上がり、悪魔サタンに対抗しなさいとイエス様から命じられています。
雅歌では、ぶどう畑を荒らす小狐を捕らえることが花嫁の責任として描かれています。私たちも花嫁として、ぶどう畑を荒らす狐、すなわち悪魔、悪霊、病、呪いを、イエス・キリストの名によって捕らえ、滅ぼすべきです。信仰に行いが伴わなければ、その信仰は死んだものです。聞いたなら、その立場に立って行動し、悪魔サタンが作った法令を打ち破るべきです。イエス様を知らない間に身につけてしまった罪の習慣や悪い癖は、根絶し尽くすべきなのです。
このことは、アハシュエロス王のすべての州において、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに行うようになっていた。各州に法令として発布される文書の写しがすべての民族に公示された。それは、ユダヤ人が自分たちの敵に復讐するこの日のために準備するためであった。(エステル8:12-13)
準備する期間が与えられました。私たちも聞いた御言葉に合わせて準備をするべきです。
御用馬の早馬に乗った飛脚は、王の命令によって急き立てられ、急いで出て行った。この法令はシュシャンの城でも発布された。(エステル8:14)
良い知らせを受け取ったら、準備し、そして急いで届けなければなりません。遠い町では、人々はまだ古い死の法令しか知らず、滅びの恐怖の中にいました。しかしそこへ、早馬の足音が聞こえ、新しい知らせが届けられたのです。「王からの新しい知らせだ!あなたたちには生きる道が与えられた!」と。私たちも、福音がまだ届いていない地域に、この良い知らせを伝えていく務めがあります。
モルデカイは青色と白色の王服を着、大きな金の冠をかぶり、白亜麻布と紫色のマントをまとって王の前から出て来た。すると、シュシャンの町は喜びの声にあふれた。ユダヤ人にとって、それは光と喜びと楽しみと栄誉であった。王の命令とその法令が届いたどの州、どの町でも、ユダヤ人は喜び、楽しみ、祝宴を張って祝日とした。この国の民のうちで、自分がユダヤ人であることを宣言する者が大勢いた。それは彼らがユダヤ人を恐れるようになったからである。(エステル8:15-17)
福音が届けられた先では、悲しみが喜びに変わります。イザヤ書61章にあるように、「灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を」です。モルデカイは荒布の代わりに王服を、灰の代わりに王冠を与えられました。神の言葉に立つ者は、このように王冠をかぶせられ、王の服を着せられます。恥は栄誉に、恐れる側から恐れられる側に変えられていくのです。
【結論】
ハマンは死んでも、彼が定めた死の法令は残っていました。この古い言葉に対して、私たちはイエス・キリストにある新しい言葉で上書きしていくべきです。そして、上書きしたなら、次に行動を起こさなければなりません。この新しい福音、良き知らせを世界中に伝え、人々を死から命へと導いていく働きをしていきましょう。
死の法則に対し王に執り成す花嫁(エステル記8:1-6)
メッセージ音声
【概要】
ハマンが滅び、モルデカイとエステルが権威を得ましたが、ユダヤ人絶滅の法令はまだ生きていました。エステルは再び命がけで王にとりなし、自分の民の救いを涙ながらに懇願しました。私たちも、エステルのようにとりなしの祈りを捧げる者となりましょう。
【聖書箇所】
-
エステル8:1-6
-
伝道者の書2:26
【慰めの言葉】
神様は、神の民が祈り、心を注ぎ出してきたことを決して無駄にはされません。人生の局面は、神様が動かれるときに大きく変わるものです。
【励ましの言葉】
悪人の財産は正しい者のために蓄えられます。私たちは自ら復讐する必要はなく、主の正しい裁きに任せれば、主が正しい時に正しい方法で物事をひっくり返してくださいます。
【勧めの言葉】
私たちに与えられている権威があるなら、それを神様のために、神の民を救うために用いるべきです。また、エステルのように、迫害されているクリスチャンやまだ救われていない人々のために、とりなし祈るべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
神様の御前に進み出る時、馴れ馴れしい態度ではなく、慎みと尊敬の念をもって祈るべきです。私たちの鈍着な思いと心を憐れんでいただき、他者の魂のために心痛める者となれるように祈りましょう。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記8章1節から6節です。
最初に1節と2節を宣言します。「その日、アハシュエロス王は王妃エステルに、ユダヤ人を迫害する者ハマンの家を与えた。モルデカイは王の前に出た。エステルが自分と彼との関係を明かしたからである。王は、ハマンから取り返した自分の指輪をはずして、それをモルデカイに与え、エステルはモルデカイにハマンの家の管理を任せた。」(エステル8:1-2)
愛するイエス様、王の王であられるあなたの御前に私たちは来ております。どうか私たちの思い、心、まずあなたの十字架の上で苦しまれ、流されたその血潮をもって私たちを清めてください。思いの中にある諸々の罪、汚れ、苦々しさ、それらすべてを取り除き、ただ真っ白になって、雪よりも白くなって、そして御前に進み出る私たちとならせてください。今、取り次ぐ僕の唇を血潮をもって清め、また聴く一人一人の耳を清めてください。これからのすべては、ただあなたの栄光でありますように。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ!素晴らしい主イエス・キリストの御名をほめたたえ賛美いたします。このエステル記は本当に、神の民がそれまで祈ってきたこと、御前において本当に心を注ぎ出してきたこと、それはすべて決して無駄にはならないということと、また神様は時を備えておられ、正しい者には報いを、また悪人で神様を知らず、神様に逆らう者に対しては、時にかなった裁きを行う主であるということが、このエステル記から分かります。エステル記には「神」また「主」という文字が一つもありませんが、しかし神様が確かにそのことをなされるということが分かるんですね。
今日の箇所、8章1節では「その日、アハシュエロス王は王妃エステルに、ユダヤ人を迫害する者ハマンの家を与えた」とあります。「その日」、何も変わらなかった状況が、その日のうちに、一日のうちに大きく変わりました。その日の朝までハマンの家だったその家は、その日、エステルのものになりました。そしてエステルはそれをモルデカイに管理を任せるようになりました。人生の局面というものは、神様が動かれるとき大きく変わるものです。冒頭で宣言しましたし、また箴言にも書いてある通り、悪人の財産は正しい者のために蓄えられていくものです。奪い取らなくていいんです。私たちが積極的に責めなくても、主がすべての物事をひっくり返されるお方であり、すべての復讐は主のものです。私たち自身の手で復讐するものではありません。主の正しい裁きに任せていれば、主は正しい時に正しい方法で、誰も文句を言えない形で、主がそれを正しく裁いてくださるんです。
モルデカイは長らく王の門のところにいましたが、しかしこの日、モルデカイは王の前に出ました。主ご自身が人を低くし、また高くしてくださるんです、ちょうど良い時に。そして、エステルはついにモルデカイと自分との関係を明かしました。この隠されていた関係は長らく隠れていましたが、それが明かされて、今度はこのモルデカイが王の前に正しく導かれてきました。
2節の方では、「王は、ハマンから取り返した自分の指輪をはずして、それをモルデカイに与え」とあります。この指輪は、ただ単なる装飾品ではありません。これはハンコです。王の印です。王の権威の象徴です。これをもともとハマンの指にはめられていたものを王が取り返して、今度はそれをモルデカイに与えました。ハマンはそれまでユダヤ人を滅ぼすため、神の民を滅ぼすため、そのような悪いことのために用いていた権威でしたが、今やハマンはもう死んで、そして今度はこれがモルデカイに、今度はユダヤ人を救う側、神の民を救う側に権威が手渡されました。
確かに世の中を見ていると、神の民を殺そうとする者たちが力を振るっているかのように見えるかもしれませんが、しかし本当に主は、主をより頼む者に対して、その祈りをしっかりと聞いておられます。「主を仰ぐ者は昇る」と先ほど賛美しました。神様はこのことを長らく放置しておかれるお方ではありません。ただ、恵みのゆえに一人でも多く救われるために裁きを遅くしておられますが、しかし神様はしっかりと主の時に神の民を高く引き上げてくださいます。このもともとハマンの手にあった指輪が、今度は神の民を救う側、モルデカイの手に渡されたのと同じことが、やがて起こるでしょう。
私たちは本当にこの与えられている権威、力があるのであるならば、それを何のために用いるか、これがとても重要です。ハマンは与えられた権威を、神の民を滅ぼすことに用いました。けれども、モルデカイはそれを神の民を救う側に用います。私たちも今、権威が与えられているとするのであるならば、それを一体何のために用いるのか。当然、神様のために用い、また神の民を救うものとして用いるべきです。
このようにしてアハシュエロス王は王妃エステルにこのハマンの家を与え、そしてエステルはモルデカイにハマンの家の管理を任せました。「神は、罪人には、神がよしとされる人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられる。」(伝道者の書2:26)まさにそのようになされたのが、これが成就したのが今日のこの箇所です。
ハマンはこうして死んで、一見すると問題が解決されたかのように見えますが、しかし、まだ解決されていないんです。というのは、まだハマンがつけた火が燃え盛っているからです。敵本人はいなくなったんですけど、しかし、敵が残した命令がまだ残っているんです。このメディア・ペルシアの法令というものは、一度発布されたら、それは誰も取り消すことはできません。王様でさえそれは取り消すことはできません。
そこでエステルが王様に懇願するんですね。3節です。「エステルは、足もとにひれ伏して、アガグ人ハマンがユダヤ人に対して企んだわざわいと、そのたくらみを取り除いてくれるように、泣きながら懇願した。」と書いてあります。エステルは一度、王の前に命がけで出ましたが、もう一度命がけで王の前に出て、王様がもしその王の笏を差し伸ばしてくれなかったら死ぬ、という命がけの懇願を再びしました。これは別に、エステルが王様を軽んじて、「私だったら過去に一度許されたから、また進み出られるだろう、いつでも進み出られるだろう」という、そういった思い上がりではなく、今度はとりなしのために、自分の民、神の民を救うために命がけで出たのです。
実際にエステルはとても言葉を慎重に選んでいます。5節を見ますと、「もしも、王様、よろしくてお許しが得られ、このことを王様が最善とおぼしめされ、私をお受け入れくださるなら、アガグ人ハムダタの子ハマンが、王のすべての州にいるユダヤ人を滅ぼしてしまえと書いた、あのたくらみの書簡を取り消すように、詔書を出してください。」エステルは感情的にはいきませんでした。泣いてはいました。エステルは泣いてこのことを言ったというふうに書いてあるんですけども、けれども感情で怒涛のように言葉をまくしたてたわけではなかったんですね。本当に言葉を慎重に慎重に選びながら、そしてその上で、本当にもう心の中では泣きながら、「どうかこのユダヤ人を抹殺する命令を取り消してください」と、そういうふうに語りかけております。私たちも正しいことを語る時こそ、言葉を慎重に選ぶべきです。「柔らかな答えは憤りを静める」と箴言に書いてあります。エステルは本当にこの自分の言葉をよくよく慎重に選んで王様に訴え出ました。
6節、「どうして私は、私の民族にふりかかるわざわいを見て、がまんしておられましょう。また、私の同族の滅びるのを見て、がまんしておられましょうか。」「どうして見ることができるでしょうか」という言葉を繰り返して、本当にエステルの思いが反復して強調されております。この自分の民の救いのためにとりなして祈ること、これは本当に私たちもするべきことです。モーセもしました。モーセはこの自分の民が金の子牛の像を作って、踊り騒いでいたのを、とりなして、「どうかこの罪を犯した民を許してください」と神様にとりなし祈りました。またパウロもローマ人への手紙で、自分の同族ユダヤ人が救われることを本当に願っている、自分がたとえ地獄に行ったとしても、それでもユダヤ人が救われるのであるならば、私はそれもまた本望だとまで言ったんですね。
エステルも同じです。自分は安全な立ち位置にいる、自分は救われたけれども、私の民は一体どうなるのか、その本当に腸がちぎれる思いで自分の家族、自分の同胞の救いのためにこのようにとりなして進み出ました。命がけで進み出ました。私たちも本当に自分の同胞、今迫害を受けているクリスチャンのために祈るべきであり、そしてまだ神様を知らないこの土地の人々のためにも、本当にこのようにとりなして祈っていくべきです。エステルは「主よ、私だけでなく、あの人も救ってください」その志を持って、泣きながら進み出ました。そして王様にお願いする時は本当に慎重に言葉を選びました。私たちも本当にこの神様の御前に進み出る時、エステルのように神様に対して馴れ馴れしい態度ではなく、本当にこの慎ましく主の御前に、尊敬の念を込めて進み出て、そして祈るべきです。「あの人を救ってください。あの人を癒してください。また、今この神様を知らない土地の人々に本当に届いてください。救ってください。」私たちはどのようにすればよいか、本当に祈り求めていくべきです。
今日の箇所においてわかること。まず1節2節の方を見ますと、本当にそれまでハマンが持っていた権威の象徴は、モルデカイに移りました。神様はいつまでも悪人が権威を持って栄えているのを見過ごしにはしておられません。ただ、祈り求めるということを私たちはするべきです。エステルは王の前に嘆願して進み出ました。私たちも人の救いのために、また神の民の守りのために、癒されるために、必要が満たされるために、本当に日ごと祈り求めていくべきです。
私たちに対しても、神様は今日も、金の笏が差し伸べられております。私たちは大胆に恵みの御座に進み出て、折にかなった助けを得るために、主に祈り求める特権が与えられております。今日も祈っていきましょう。そして皆さんお一人お一人、今与えられている権威、特権があるとするならば、それを本当に神様の御国のために行使し用い、また私たち自身も本当にこの神の民のために、また救いのために祈り求めていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
ハマンの死によって問題が解決したかに見えましたが、ユダヤ人絶滅の法令はまだ有効でした。エステルは再び命をかけて王にとりなし、慎重な言葉と涙をもって同胞の救いを懇願しました。私たちも、エステルのように自分の安全だけでなく、他者の救いのために、とりなし祈る者でありたいと願います。神は祈り求める者に耳を傾け、悪の権威を打ち砕き、正しい者にその力を与えられます。私たちに与えられた権威や特権を神の栄光のために用い、救いを必要とする人々のために祈り続けましょう。
悪人が滅びる法則 − 主に信頼して善を行う(エステル記7:7-10)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エステル記
- 執筆 :
- pastor 2026-7-24 6:10
悪人が滅びる法則 − 主に信頼して善を行う(エステル記7:7-10)
メッセージ音声
【概要】
花嫁である私たちは、夫であるイエス様を第一に立て、慎ましくあるべきです。悪を行うハマンは自らが立てた柱にかけられましたが、神は正しい者を必ず輝かせてくださるので、悪に腹を立てず、主に信頼して善を行いましょう。
【聖書箇所】
-
エステル7:7-10
-
詩篇37:1-6
【慰めの言葉】
皆さんが今している主のための働きは、必ず主が見ておられ、主が時と場所を備えて輝かせてくださいます。どのようにかは分かりませんが、主は必ず皆さんを輝かしてくださいます。
【励ましの言葉】
私たちは、悪魔サタンの攻撃に対して自分の言葉や力で対応するのではなく、いつでも主人である王の王イエス様により頼み、「悪魔サタンがこういうことをしました」と訴えればよいのです。
【戒めの言葉】
人の顔色を伺いつつ、神様の顔を伺わないと、本当に決定的なところを見落としてしまいがちになります。私たちは間違った対応をしてはなりません。
【勧めの言葉】
私たちは、イエス・キリストに召し出されたからには、夫であられるイエス様を喜ぶ、イエス様を待ち望む花嫁となるべきです。エステルのように、いつでも王様を第一に立て、慎ましい態度でイエス様に望むべきです。
【悔い改めの促しの言葉】
何か罪を犯したのであるならば、ただ「許してください」と言うだけでなく、「私はこれこれの悪いことをしました。もうしません。悔い改めます」と、自分の罪を認めて告白すべきです。
***詳細***
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記の7章7節から10節です。
エステル7:7 王は憤って酒宴の席を立ち、宮殿の園に出て行った。ハマンは、王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまった。王が彼に災いを下す決心をしたことが分かったからである。
私たちはイエス様の花嫁であり、王妃の立場を得ています。しかし、その立場を訴える者がおり、また私たち自身も、花嫁と言いつつ油を用意していなかったり、居眠りをしたりする弱さがあります。花嫁は夫を愛するものです。今、私たちはイエス様を愛するものとして、ここに臨ませていただきたいと思います。
イエス様は私たちにとっての花婿ですね。夫を喜ばない花嫁がいるでしょうか。残念ながら、世の中にはいるのです。しかし、私たちはイエス・キリストに召し出されたからには、夫であるイエス様を喜び、待ち望む花嫁となるべきです。
聖書には十人のおとめ(花嫁)のたとえが出てきますが、そのうち五人は賢く、五人は愚かでした。愚かな五人は油を用意していませんでした。夫である方が来られる時の備えができていなかったのです。「夫はまだ来ないだろうから油は要らない」と思っていたのかもしれません。しかし、私たちは夫であるイエス様を第一に考え、たとえ夜中に来られてもいいように、ご自身の目から見てピカピカに光る灯火を掲げてお迎えできる、万全の態勢でありたいものです。
エステルは、この王様に対して常に「王様第一」でした。自分と自分の民族を救うためのお願いでさえも、「王様、もしもあなたがよろしければ」と、いつでも王様を第一に立てました。自分の主張ではなく、王様を立てたのです。真の妻たる者は、このように「もしあなたがよろしければ」という態度で、いつもイエス様に対して臨むべきです。
このエステルの訴えと願い事を聞いたハマンは震え上がり、王様は怒り、憤って酒宴の席を立ち、宮殿の園に出て行きました。王様は、怒りのあまり性急に判決を下さないように、クールダウンするために出て行ったのかもしれません。何しろハマンは王国のナンバー2であり、彼を突然処刑すれば実務的に困ることがあるでしょう。また、それまで王様とハマンは何度も酒を酌み交わす仲だったはずです。王様はある程度考えるため、あるいはどのように判決を下そうかと考えに行ったのかもしれません。
一方ハマンは、王妃エステルに命乞いをしようとしてとどまりました。王が彼に災いを下す決心をしたことが分かったからです。王様の顔色をうかがうことにかけて、ハマンはピカイチでした。「ああ、この王様の表情は、自分に災いを下すと決心した顔だ」と分かったのです。人の顔色をうかがうのが上手い人が出世しやすい世の中ですが、人の顔色をうかがいつつも、神様の御顔をうかがわなければ、決定的なことを見落としてしまいます。
ハマンはエステルに命乞いをしようとしました。本来、命乞いは王様にするべきです。もっと聖書的に言うなら、王様のもとへ行き「私が悪かったです」と自分の罪を認めて告白するべきでした。しかしハマンは、王様ではなくエステルに、そして悔い改めではなく命乞いのためにとどまりました。彼は様々な間違った対応をしています。私たちは間違った対応をしてはなりません。
もし罪を犯したなら、イエス様ではなく誰か人に「私が悪かったです」と悔い改めるのではなく、「どうか命を助けてください」と、自分のしたことはさておき、罪には一切言及せず、ただ助けを求めるようなことをしてはいけません。
例えば、私が誰かに悪いことをしたとして、「許してください、許してください」とだけ言うのと、「これこれの悪いことをしました。もう今後しません」と言うのと、どちらを受け入れてもらえるでしょうか。後者ですね。神様に対しても同じです。ただ「許してください」ではなく、「私はこれこれの悪いことをしました。もうしません。悔い改めます」と告白すべきです。「もうしません」という言葉に自信がなくても、「どうかこの決心を聖霊様助けてください」と祈ればよいのです。
ハマンはそうせず、本来王にするべきことを妻であるエステルにしました。あくどい者は、いつも強い者ではなく、弱い者に取り入ろうとします。悪魔サタンは、創世記の時から、夫ではなく妻に攻撃を仕掛けるのが常套手段です。悪魔サタンはイエス様には攻撃できないので、私たち花嫁に攻撃を仕掛けてきます。しかし、私たちはその攻撃に自分の言葉や力で対応してはいけません。いつでも主人である王の王、イエス様により頼んで、「イエス様、悪魔サタンがこんなことをしましたよ」と訴えればよいのです。
エステル7:8 王が宮殿の園から酒宴の広間に戻って来ると、エステルのいた長椅子の上にハマンがひれ伏していたので、王は言った。「私の前で、この家の中で、王妃までも辱めようとするのか。」このことばが王の口から出るやいなや、人々はハマンの顔をおおった。(新改訳2017)
ハマンは命乞いのためにひれ伏していたのですが、その場所が問題でした。彼はエステルのいた長椅子、つまりベッドのようなものの上にひれ伏していたのです。時も場所もわきまえないハマンです。命乞いをしていたつもりのその行動が、彼を弁護するどころか、逆に彼を滅ぼす決定的な証拠となってしまいました。エステル記においては、いつもこのような逆転が起こります。そして、時と場所をわきまえることの大切さがよく分かります。私たちは自分のやりたい時、やりたい場所を強引に主張しがちですが、そうではなく、神様の時、神様の場所を求めるべきなのです。
王様は「王妃までも辱めようとするのか」と言いました。この「辱める」と訳された言葉は、「征服する」「押さえつける」「力ずくで屈服させる」という強い意味を持つ単語です。王様には、この危機的な場面でハマンがエステルに性的な暴行を加えようとした、と見えたかもしれません。あるいは、この期に及んでなお、エステルを力で屈服させ、支配下に置こうとしているように見えたのかもしれません。ハマンがこれまで多くの人にしてきたように、ナンバー2の地位をかさに着て、力ある言葉で押さえつけようとしている、と。結局、王様の目に映ったハマンの姿は、さらなる「押さえつけ」だったのです。
自分の罪を悔い改めず、認めない者は、永遠に赦されることがありません。イエス様の十字架の左右にいた強盗のうち、右側の強盗は「イエス様、私は罪を犯しました。この刑罰は当然です」と言い、「あなたの御国の王座に着くときには、私のことを思い出してください」とイエス様に願いました。そして彼はパラダイスへ行くことになりました。しかし、左側の強盗は最後まで自分の罪を告白せず、むしろイエス様に「お前はメシアではないか。自分と私たちを救え」と指図しました。自分の罪を認めず、受けるべき刑罰から逃れようとしたのです。ハマンも同じ性質です。最後の最後まで自分の罪を告白せず、悔い改めもせず、力で屈服させようとしました。これは、パラダイスを逃してしまう人の特徴です。私たちはそうであってはなりません。
王様の言葉が出ると、ハマンの顔は覆われました。新改訳2017年版では「ハマンの顔は青ざめた」となっていますが、直訳的には「覆われた」です。かつてモルデカイの顔を曇らせようとしたハマン自身が、今や顔を上げられなくなり、人々に顔を覆われるような、王の前で青ざめる者となりました。箴言にある通り、「穴を掘る者は、その穴に自分が落ち込む」のです。
エステル7:9 そのとき、王の前にいた宦官の一人ハルボナが言った。「ちょうど王に良い知らせを告げたモルデカイのために、ハマンが用意した高さ五十キュビトの柱が、ハマンの家に立っています。」すると王は命じた。「彼をそれにかけよ。」
エステル7:10 こうして、ハマンがモルデカイのために用意したあの柱に、ハマンがかけられた。それで王の憤りは収まった。
王様は、ハマンをもっと穏便に扱おうとして戻ってきたのかもしれません。しかし、戻ってきた時のハマンの態度を見て、「彼をそれにかけよ」と命じました。宦官の一人ハルボナが、ずっと見ていたことを告げます。ハマンが50キュビトもの高い柱を立てたこと、そしてその動機が、王に良い知らせを告げたモルデカイを処刑するためであったことを。モルデカイにとっては危機的な状況でしたが、実はこの柱こそが、さらに王の怒りを買い、ハマンの破滅を決定的にする材料となったのです。王は、自分の命を救ってくれたモルデカイを殺害しようと企んでいたハマンの悪意に満ちた計画を知り、「彼をそれにかけよ」と命じたのです。
悪い計画は、秘密裏に行われ、悪意を企む者の方が正直者より強いように見える時があります。しかし、神様の前では隠されていることは何もありません。神様は、正しい人を立て、その良い行いに報いるために、時を備え、人を備えて待っておられます。神様はハルボナという人を備え、ハマンの悪事を逆転させる時を備えておられました。
そしてハマンは、その50キュビトの柱にかけられます。この異常な高さは、単にモルデカイを処刑するだけでなく、見せしめにするためでした。しかし結局、その高さこそが、ハマン自身の悪意の高さを多くの人々に知らしめることになったのです。人を辱めるために立てた看板が高ければ高いほど、あるいは人を非難する声が大きければ大きいほど、実は自分自身の悪を宣伝し、自分のお里を知らせているだけなのです。私たちは、人を訴え、あげつらい、あざける声を高くしてはなりません。そうすればするほど、自分自身の悪意を宣伝することになってしまうからです。人は種を蒔けば、その実を刈り取ることになります。
だから私たちは日々、エステルのように慎ましい花嫁として、声を荒げるのではなく、イエス様に対して「王様、もしもあなたがよろしければ」とへりくだるべきです。エステルは「この悪だくみをしたのは、この悪いハマンです」と一度告げた後、何も語っていません。私たちは唇で主張するのではなく、王妃として、花嫁としての立ち居振る舞い、優雅で、おしとやかで、イエス様の前に慎ましい姿を態度で示すべきです。そして、訴えてくる悪魔サタンに対しては、エステルのように「この悪どい者がこれをしました」と、はっきりと王様に訴えるべきです。王様以外の者に訴えても、それはただの愚痴になるだけです。しかし、神様に訴えるなら、それは祈りとなり、王であるイエス様が正しく事をなしてくださいます。
最後に、詩篇37篇1節から6節を宣言します。
詩篇37:1-6 悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだから。主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように、あなたの正しさを真昼のように輝かされる。
悪を行っている者は、雑草が生い茂るように栄えているように見えますが、主にあってその滅びは一瞬です。しかし、主に信頼して善を行う者は、鷲のように高く上り、若々しくなっていきます。「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」モルデカイの義は、それまでずっと覆われていましたが、ここぞというタイミングで、光のように、真昼のように輝かされました。
皆さんも同じです。皆さんが今している主のための働き、礼拝の備え、御言葉の働きは、必ず主が見ておられ、主が時と場所を備えて、本当に輝かせてくださいます。どのようにかは分かりませんが、主は必ず皆さんを輝かしてくださいます。この望みに立ち、エステルのように、日々、王の王なるイエス様の前に慎ましく、そして悪に対しては力強く、凛々しく、この世で栄えていく皆さんでありますように。
【結論】
悪を行うハマンは、自らが用意した滅びの道具によって滅びました。私たちは、人の顔色ではなく神の御顔を仰ぎ、悪に腹を立てることなく、ただ主に信頼し、善を行うべきです。そうすれば、主が私たちの義を真昼のように輝かせ、全てのことを成し遂げてくださいます。エステルのように、夫であるイエス様を第一に立てる慎ましい花嫁として歩みましょう。
霊的戦いによって組み立てられる神の時(エステル記7:1-6)
メッセージ音声
【概要】
エステル記7章1-6節を通して、霊的な戦いの本質と神の時を待つことの重要性について学びます。王妃エステルが王とハマンを同席させた宴会で、ついに敵の悪を明らかにし、神の民を救うために声を上げる決定的な場面です。
【聖書箇所】
-
エステル7:1-6
-
伝道者3:7
【励ましの言葉】
神様は私たちを通り良き管として用いてくださいます。イエス様の時を待ち、イエス様の喜ばれる宴会(礼拝、賛美、祈り)を設けるとき、神様は必ず敵を打ち負かしてくださいます。
【勧めの言葉】
霊的な戦いは戦闘服を着て武器を持つ戦いではありません。王妃の衣装、すなわちイエス様の喜ばれる良い行いと佇まいをまとい、主の前に進み出るべきです。すべてのことにイエス様を招き入れ、「イエス様、イエス様」と主の名を呼び、主の時を測る力を求めましょう。
【戒めの言葉】
自分の思い、感情、タイミングで動くことは間抜けです。十字架で死んだ者であるならば、自前の命は動くべきではありません。言いたいことがあっても、神様が「今いいよ」と言われるまで待つべきです。
【***詳細***】
今日恵みをいただく御言葉はエステル記7章1節から6節です。エステル記7章1節と2節を読みます。
「王とハマンは王妃エステルの宴会にやってきた。この宴会の2日目にも、王はエステルに尋ねた。あなたは何を願っているのか。王妃エステル、それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でもそれを叶えてやろう。」(エステル7:1-2)
アーメン。
祈っていて思ったんですけれども、本当に私たちはイエス様を通すべき通り良き管となるべきなんですね。この通り良き管に詰まりがあっては、流し出すことはできません。何が詰まりになるかというと、「私これがしたい」とか、あるいは神様の仕事をしている代において、これが一番その妨げになりそうなんですね。
私もある程度メッセージの準備をあらかじめしてきたんですけれども、準備した通りに語ろうっていう、その思いがその通り良き管の詰まりになってしまうことがあるわけです。これは奉仕においてもそうですね。私の意向、私の思いで、そうした諸々がその通り良き管を詰まらせてしまうということがあります。
本当に都度都度、イエス様に聞くべきです。イエス様は、「私は父から何も聞かない限りは、私から何もすることができません」というふうに言いましたね。私たちも本当に都度、主に聞く態度、これをいつもいつも持っているべきであって、何かことが起きたら、そのことの大変さに頭がわーっとなるのではなく、本当にその時も「主よ、イエス様」ってまずそういうふうにしたら、主が心に平安を与えてくださって、そして物事が見えるようになるんです。
ハガルが逃げていった時、目が何も見えなくなって、それですぐそこに井戸があるにもかかわらず、それが見えないで、「私とこの可愛い子供は死ぬんだ」って言って、「私は子供が死ぬのを見たくない」って言って、その子供を木の下に置き去りにして、遠くに行って、そして泣きましたね。井戸がそこにあるんですけれども、悲しみが目を塞いで、あるいは神様に心を向けないで。けれども、その時、神様はハガルの声ではなく、イシュマエルの声を聞いて、それでハガルに現れてくださって、目を開いてくださって、井戸がそこにあるのを見つけ出させてくださいましたね。
本当に私たちも、自分の感情だとか、「私かわいそう」だとか、ハガルのようになるのではなく、イシュマエルが神様に叫んだようにまず神様に叫んで、「神様、あなたの御旨、あなたの御心は何ですか」っていうふうに、そういうふうに聞くべきですね。
このエステルなんですけども、いよいよ、その決定的な時が来ますけれども、その決定的な時というのは、どういう状況だったか。1節の方ではね、「王とハマンは王妃エステルの宴会にやってきた」って書いてありますね。ですから、戦いの場、決戦の場ではあるんですけど、しかし、現実的な目で見れば、そこはね、豪華絢爛な、華々しい宴会の場なんですね。
エステルは王をもてなすために万全の整えをしています。もう王妃の服も着て、化粧もばっちり整えてきたことでしょう。王様の喜びになるために、自分の中で一つもくすみがあってはならない。それほどまでに自分自身をそのようにしっかりと王の御前に整えて、そして万全の服で、万全の立ち居振る舞い、表情で、出てきました。
霊的な戦いはその外装ではなくて内側なんですね。エステルは戦闘服を着て戦いに来たのではありません。王妃の服、王妃の衣装、王妃の飾りを身につけて王の前に進み出て、そして王だけではなく、この敵も一緒に王と一緒に敵もその場に連れてきました。これが霊的な戦いの本質です。
皆さんが今、敵がいるとするのであるならば、それが霊的な敵であろうと、あるいは人間の敵であろうとも、それを王と一緒に宴会の場、王を喜ばせる宴会の場に、王様と一緒にその敵も連れてくる。これが霊的な戦いの本質なんです。王なるイエス様と敵を同席させて、そして主の時を待つんです、主の時。
それはなかなか来ませんでした。王様がこの言葉、「あなたは何を願っているのか。王国の半分でも叶えてあげる」って王様が尋ねたのはこれで3度目です。3度目。1度目の時でもありませんでした。2度目の時でもありませんでした。3度目の時、それが神様の時だったんです。エステルはこの神様の時に、神様から示された方法で、この敵を打ち負かす。そして自分の神の民を救う。このことを発動させたんですね。
ですから神の国の仕事をする人というのは、何でも思ったことをすぐにパッと口にするという人が立て上げられるものではありません。神様が備えられた時に、神様にあって必要なことを語る人が神の国のために大いに用いられる人なんですね。
その時はどのようにして得るべきか。こればかりはね、本当に神様に祈って神様に伺うしかありませんね。冒頭で引用したのは、伝道者の書3章7節のところですね。「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」と書いてあります。天の下には何事にも神様が定めた時があります。
その時を見極めること、このエステル記でとても大事なのは時ですね。あるいは日本人が好きな「間」という、そういう意識ですね。お茶の間とか床の間とかありますね。その空間だけでなく、時間の間合いもあります。そしてこの時間的な間合いを、これを外している人は間抜けというふうに言うんですね。間が抜けているからですね。
この間を度外視して、自分の好きな時に好きなことを言う、ハマンが間抜けなんですね。王様が寝ている時間にもかかわらず、もうあのモルデカイを吊るす50キュビトの柱は立てたいがために、もう夜が明ける前にさっさと行っちゃうんですね。また、エステルに命乞いをするべき時も間を外していて、エステルのそのベッドの上に跪いているから、王様の目にはもう乱暴しているかのように見えたんですね。
間を外してはならないんです。私たちも本当に神様の時、神様の空間、神様の間、これを見極めるべき時があるんです。
王様が問いました。それに対してエステルが初めて、この自分の願い事を言うんですね。3節です。
「王妃エステルは答えた。『王様、もしも私があなた様のご厚意を受けることができ、また王様がよろしければ、私の願いを聞き入れて、私に命を与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にも命を与えてください。』」(エステル7:3)
アーメン。本当に切実な願いです。王様としては、何か宝石でも欲しいのかなとか、あるいは何かもっと軽く考えてたかもしれません。けれども、エステルの願いはとても重くて重くて、エステルが本当になんでここまで黙っていたのかって思えるような、それほどの重い願いですね。
しかもエステルのその願い方。もういきなり願い事を言うんじゃないんです。エステルの願い方。「王様、もしも私があなた様のご厚意を受けることができ、また王様がよろしければ」、まず王様が私の願い事を聞き入れてくださるかどうか、まずあなた様のご自由になさってくださいという、そこから始めてるんですね。本当に慎ましいです。そして本当にまず、王様の御心ありきなんですね。
私たちも真の王様であるイエス様の御心がまずありき。「イエス様、もしあなたの御心にかなったのでありましたら」、これが願い事をする時におけるまず真っ先にイエス様に問うことなんですね。
しかもエステルのこの願い事の内容は、「私の願いを聞き入れて私に命を与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にも命を与えてください」。命を与えてくださいという、そういう願いです。今まさに殺されようとしている。だから命を助け、命を与えてください。
エステルが続きます。4節。
「私たちは売られて根絶やしにされ、虐殺され、滅ぼされようとしています。」(エステル7:4)
本当にね。根絶やしにされ、虐殺され、滅ぼされる三つの動詞ね。これは曖昧な危険なことではない。もう本当に徹底的な絶滅の計画が立てられている。これね、3章13節の法令の言葉をそのまま王様に突き返す、その表現だったんですね。
ハマンは徹底的にこの三つの動詞でもって、自分の憎む相手を殺そうと企んだ。それをそのまま王様と、また同席しているハマンを前にして、このままこの3つの動詞をそのまま突き返したんです。
私たちも敵がしていること、それをそのまま神様に突き返すべきなんです。ヒゼキヤがそうでしたね。キム先生はこれをパラシ戦略と言いました。敵の手紙をそのまま広げてパラシして、そして神様に持って行って、「神様、これこれです。どうぞご覧になってください」。そのまま突き返しました。エステルもまさにそれをしたんです。
今皆さんは敵から攻撃を受けているでしょうか。困難があるでしょうか。するならば王と敵を同席させた宴会を、皆さんが王なるイエス様の喜ばれる宴会を設けて、そしてパラシしましょう。
エステルの言葉、本当にこの王様もハマンもびっくりしたことでしょうね。ハマンの方もきっとエステルは何か宝石でも欲しいのかなって、そんな風に思っていたかもしれませんけれども、けれども、この王とハマン、王と敵を同席させて、そして敵の言葉をそのまま神様に、王なるお方に突き返す。それをするべきなんです。
エステルは続きます。
「私たちが男女の奴隷として売られるだけなら、私は黙っていたことでしょうが、そうはいきません。」(エステル7:4後半)
エステルは何事も大声で訴える、そういう人ではなかったことでしょう。むしろ、耐えるべきこと、黙っているべきことは、しっかりと黙っている、そういう人でした。実際、すぐに願い事も申し上げずに、そのまま黙って、そして王様が3度目に聞いた時に、こうして話しましたね。
本当に黙っているべき時はあるんです。あるにはあります。けれども黙ってはならない。声を立てるべき時もまたあるわけです。エステルはいよいよ声を立てるべき時に来ました。特に神の民が殺害を受けている時、私たちは黙っていてはなりません。祈るべき時、はっきりと私たちも祈って、また、訴えるべき時、しっかりと訴えるべきなんです。
私たちはね、自分の憎たらしいから訴えるということではなく、むしろ本当に神の民のために、また敵がこのままもっと罪を犯させないために、黙っていてはならない時があるんです。
エステルは続きます。
「その迫害する者は、王のお受けになる損失を償うことはできないのですから。」(エステル7:4最後)
アーメン。エステルはこのことは王の多大な損失につながると言っております。ユダヤ人を殺すことはこれは王国にとっても取り返しのつかない損失になるということを訴えております。ハマンが受ける利益よりも王が失うものの方がはるかに大きい。
この悪いこと、悪事というものは一見するとすぐに利益がもたらされるかのように見えるかもしれません。人のものを盗むってこれは一見すると本人からすればすぐにお金が手に入るんだ。そういうふうに思うかもしれないんですが、しかし多大な損失を実は本人自身の人生において、霊的において損失をもたらすものなんですね。
何か良くないことが起きる時にすぐに声を荒げる。これは本人にとってはすぐ自分の望みが叶うかもしれませんけれども、しかし最終的には人間関係を壊し、またその場所、その組織、それを破壊してしまう、そういった損失をもたらすものです。ですから私たちはこのエステルのように慎ましく、そして思慮深くなるべきですね、思慮深さ。これを皆さん求めてください。思慮深さ。
そして5節。
「クセルクセス王は王妃エステルに言った。『そんなことをしようと心に企んでいる者は一体誰か。どこにいるのか。』」(エステル7:5)
王様は確かにこのユダヤ人殺害の法令を許可しました。けれども、それが実はこの王妃自身を殺し、また王にとって損害になるということをよくわからないまま許可してしまったんですね。
それでこの王は、このことを言いますね。「そんなようなことをしようと心に企んでいる者は一体誰か」。原文的には、その心を満たして、このようなことをしようとした者は誰か。心を満たすというのは、要するにそういった悪事ね。そうしたそんな大胆な悪を行おうと、あえて心して企んだという意味の表現ですね。こういう悪事を心して、自分から進んで企んだ。そういう者は一体誰かっていうふうに、王様は問うたわけですね。
本当にこの志、これがとても大事です。心の方向性ね。悪どいことをしようとして悪をする人がおり、あるいはね悪はしたくないけれども、つい悪はしたくないのにやってしまうという悪があります。
ここにおいて王様が問うているのは、心して好き好んで悪をした者は一体誰かということですね。悪は隠されている間は何か強く見えます、はびこっているかのように見えますけれど、しかし、神様の光が当てられるとその隠れていた悪の正体が明らかにされるんですね。
エステルは言います。
「迫害する者、敵とはこの悪人ハマンです。」(エステル7:6前半)
「ハマンは王と王妃の前で震え上がった。」(エステル7:6後半)
アーメン。エステルはですね、「誰かさんが悪いことをしました」とは言いませんでした。断定的に「この悪人ハマンです」っていうふうにはっきりと言いました。明らかにしました。
ですから、真実を語るというのは人を感情的に攻撃することではありません。けれども、この神の民を守り、神様の御旨御心を守るためには、悪を悪とはっきりと言わなくてはならない時があります。
エステルはこれ恐れがなくなったから語ったのではありません。恐れていたかもしれません。ハマンは王に次ぐ第2の人物、ナンバー2です。自分は時には30日もお呼びがかからないような、そういう弱い女性です。けれども語るべきこと、真実をはっきりと語りました。神様に信頼して、そして本当にこの語るべきこと、これを語ること、これは皆さんにとって必要なことです。
皆さんも王妃エステルのごとく、教会というキリストの花嫁、皆さん一人一人がそうです。皆さんも本当にこの語るべき時にしっかりと語るべきです。
今、本当にクリスチャンは世界中いたるところで迫害されており、そしてこの日本という国においてはもう1%未満という本当に救われていない魂。その他大勢がもう99%以上が救われていない魂という現状があります。
皆さんは黙っているべき時ではないんです。祈るべきです。エステルはこの敵を訴える時において宴会の席を設けました。私たちもイエス様の喜ばれる礼拝という宴会、賛美という宴会、祈りという宴会を設けて、王妃の服を整えて着て行ったように、私たちも本当に良い行い、そしてイエス様の喜ばれる佇まいという服を着ていくべきです。
霊的戦いは戦闘服を着て武器を持つ戦いではありません。イエス様に喜ばれる王妃の衣装をまとい、そしてイエス様の喜ばれる宴会にその敵も一緒に連れてくる。これが霊的な戦いです。
【結論】
エステル記7章を通して、霊的な戦いの本質が明らかにされました。それは戦闘服を着て武器を持つ戦いではなく、王妃の衣装、すなわちイエス様の喜ばれる良い行い、佇まい、態度をもって王の前に進み出る戦いです。王と敵を同席させた宴会を設け、神の時を待ち、神が「今だ」と言われる時に真実を語る。これが神の民を救う戦いの方法です。
私たちもエステルのように、すべてのことにイエス様を招き入れ、「イエス様、イエス様」と主の名を呼び続ける者となりましょう。自分の思いや感情、タイミングではなく、神様の時を測り、神様の間合いを見極める思慮深さを求めましょう。そして語るべき時には、恐れずに真実を語り、祈るべき時には切実に祈る、そのような王妃のような信仰者として、この日本の地において、つくば未来市において、神の御心が行われるために立ち上がりましょう。
モルデカイの忠実さに神が報いた逆転劇(エステル記6:11--14)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エステル記
- 執筆 :
- pastor 2026-7-21 6:50
モルデカイの忠実さに神が報いた逆転劇(エステル記6:11--14)
【概要】
エステル6:11-14を通して、神が時と状況を主権的に反転させ、神の民を守り高く引き上げること、また栄誉の中でも使命と祈りに戻るモルデカイの姿勢を学ぶ。
【聖書箇所】
エステル6:11-14
イザヤ61:1-3
箴言16:18
創世12:3
【励ましの言葉】
-
神は時を支配し、最善のタイミングで主を仰ぐ者を高く引き上げる。
-
灰の代わりに冠、嘆きの代わりに喜びを与える主の約束は、今を生きる神の民にも有効。
【戒めの言葉】
-
高慢は破滅に先立つ。成功や栄誉のときにこそ、祈りと使命に立ち返ること。
-
神の民を侮り、迫害する高慢は必ず敗北を招く。
【勧めの言葉】
-
祝福を受けた後の行動をあらかじめ心に定め、すぐ祈りの持ち場へ戻ること。
-
家族・世代のために継続して祈り、主の働きを担う備えをすること。
【悔い改めの促しの言葉】
-
神の導きより自分の計画や不信を優先した思いを悔い改め、信仰の勇気をもって主のミッションに従う。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記6章11節から14節です。まず11節と12節を宣言します。「ハマンは王服と馬を取ってきてモルデカイに着せ、彼を馬に乗せて都の広場に導き、その前で『王が栄誉を与えたいと思われる人はこの通りである』と叫んだ。それからモルデカイは王の門に戻ったが、ハマンは嘆き悲しんで頭を覆い、急いで家に帰った。」(エステル6:11-12)
イエス様は昨日も今日もいつも同じであり、エステル記の時代にも神の民は負けっぱなしではありませんでした。時にかなって美しい勝利と必要の満たしを与えてくださる方です。今、この場にいるすべての人にも等しく、主は神の民に対して報いを与えてくださいます。エステル記を読むと、神が時間と空間を支配しておられることがよく分かります。ハマンは本来モルデカイを殺すために柱(絞首台)を立てて王宮に来ました。しかし彼が口を開く前に、王は「王が栄誉を与えたいと思う者に、どのようにすべきか」と問われ、ハマンは自分が栄誉を受けたい一心で最上の栄誉を提案しました。ところが王は「あなたが言ったことを、ユダヤ人モルデカイにすべて行いなさい。一つも怠ってはならない」と命じたのです(参照:エステル6章前半の文脈)。
ハマンは王の乗る馬、王の冠、王服を自分のために求めましたが、結果は逆転し、自分の手で、しかも自分の口でモルデカイに栄誉を与えることになりました。町の人々は見ました。「ハマンが叫んでいる。馬に乗り王服を着ているのはモルデカイだ。」灰をかぶり荒布をまとい、ユダヤ民族の救いのために祈り続けていたあのモルデカイが、嘆きから喜びへ、荒布から王服へと一気に変えられたのです。しかも、彼に衣を着せたのはモルデカイを殺そうとしていたハマン自身でした。神は敵の計画を覆し、ご自分の民を祝福するために敵の手さえ用いることのできる方です。
この逆転は旧約の歴史にも繰り返し現れます。モアブの王バラクがバラムを雇ってイスラエルを呪わせようとしましたが、神は呪いを祝福に変えられました(民数記22–24章の文脈)。神はアブラハムにこう約束されました。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」(創世12:3)。信仰により神の言葉に従い出ていく者の報いは祝福です。私たちも信仰によってアブラハムの子孫であるなら、同じ約束の流れにいます。人がどのように評価しようとも、主を仰ぎ恐れる者を、神は時至って再び立たせ、鷲のように高く引き上げ、新しい歩みを与えます。
12節をもう一度見ます。「それからモルデカイは王の門に戻ったが、ハマンは嘆き悲しんで頭を覆い、急いで家に帰った。」(エステル6:12)モルデカイは王の栄誉を受け町中を行進しました。もし彼が栄誉を自己のために用いる人であったなら、家に戻って宴会を開き、ハマンが自分を称えたと吹聴したかもしれません。しかしモルデカイは違います。彼が戻ったのは「王の門」、すなわち祈りの場、とりなしの場、ユダヤ人の救いを叫ぶ持ち場でした。なぜなら、戦いはまだ終わっていなかったからです。ユダヤ人殺害の命令は依然として有効であり、法令はそこに残っていました。だから彼は栄誉の後も祈りに戻り、使命を捨てませんでした。神が高く上げられる人とは、どれほど引き上げられても使命を捨てない人、祈りをやめない人です。状況が好転したからといって祈りを投げ捨てる人には、栄誉は任されません。
祝福を受けた時こそ人の本心が表れます。祈りが答えられる前には熱心でも、答えられた後に祈りを放棄して宴に走るなら、そこで成長は止まります。多くの王たちがその失敗をしました。しかし本当に苦しい時に謙虚であったなら、栄誉が与えられた時からが新たな戦いの始まりです。祝福後の歩みを心にシミュレートしましょう。「主よ、ありがとうございます」とまず主に感謝し、その後の毎日を使命を全うするために用いる――これがモルデカイの精神です。
一方、ハマンは悲しんで頭を覆い急いで家に帰りました。頭を覆うとは喪に服し、深い悲しみや恥を表す行為です。彼は町中でモルデカイを引き上げ、家に戻ると妻ゼレシュと友人たちに起こったことを語りました。「ハマンは自分の身に起こったことの一部始終を妻ゼレシュと彼のすべての友人たちに話した。すると知恵のある者たちと妻ゼレシュは彼に言った。『あなたはモルデカイに対してすでに打ち負かされ始めていますが、もしモルデカイがユダヤ人の一人であるなら、あなたは彼に勝つことはできません。必ずあなたは敗れるでしょう。』」(エステル6:13)昨日までは「高い柱を立ててモルデカイをかけなさい」と助言した彼らが、今日は「必ず敗れる」と言います。彼らは「知恵のある者たち」と呼ばれています。知恵ある者は歴史を知っています。ユダヤ人が神を恐れる限り、敵は必ず敗れるのです。
ハマンはまだ大臣であり、外形的には失っていないように見えました。しかし流れは変わりました。高慢によって高く積み上げられたものが崩れ始め、もう止められません。「高ぶりは滅びに先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言16:18)。ハマンの滅びはこの日に始まったのではありません。彼が高慢になり、神の民を見下し、滅ぼそうと企んだ時点で、すでに破滅は進行していたのです。今日の世界でも、イエスを信じる人々を罵り、迫害する高慢な行為が見られますが、その足はすでに滅びへ向かっています。
さらに遡れば、アマレクに対する神の宣言があります。出エジプトの時代、「主は世々にわたりアマレクと戦われる」(出17章の文脈)と語られました。アマレクが神の民を嘲った時から、その滅びは定まっていたのです。サウル王の時代に決着しきれなかった因縁が、エステル記の時代に至って神の主権のもとで結着します。モルデカイはベニヤミン人(サウルの家系)であり、ハマンはアガグ人(アマレク系)でした(エステル2:5、3:1の系譜)。神は時と歴史を貫いて、ご自身の正義を欠けなく成し遂げられます。
モルデカイが引き上げられたのは、この日の行進だけではありません。もっと前から、彼が信仰をもってエステルを支え、ハマンがアマレクの子孫であることを知ったとき、聖なるプライドをもって膝をかがめませんでした(エステル3章)。そのためにユダヤ人殺害の布令が出ても、彼は荒布を着て灰をかぶり、民族のために泣き祈りました(エステル4章)。主を仰ぐ者を、主は鷲のごとく高く上げる計画を既にお持ちでした。イザヤはこう告げます。「主は...灰の代わりに冠を、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の衣を与えられる」(イザヤ61:1-3)。また「あなたがたは恥に代えて二倍のものを受け、侮辱に代えてその分け前に喜び歌う」(イザヤ61章の約束)。まさに逆転のしるしが現れました。
「彼らがまだハマンと話しているうちに、王の宦官たちがやって来て、ハマンを急がせてエステルの設けた宴会に連れて行った。」(エステル6:14)ハマンには考える時間が与えられませんでした。作戦を練り直すことも、言い訳を整えることもできず、すぐにエステルの宴――すなわち裁きの場へと急がされました。神は時間を管理しておられます。王には眠れない夜(エステル6:1)、エステルには一日の猶予、モルデカイには最善のタイミングでの報い、ハマンには猶予なき促し。時間そのものが神の御手の内にあります。悪が栄えているように見える時でも、神が見ておられないのではありません。神は礼拝の時の態度も、その後の立ち居振る舞いも見ておられます。主の御手の内には主権があり、主の定めた時に、主の御業が動き出します。
イザヤ61章の約束に立ちましょう。主は灰の中に座る者に喜びの冠をかぶらせ、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着せられます(イザヤ61:3)。モルデカイが受けたように、主を仰ぐ者は恥に代えて二倍のものを受け、侮辱に代えて喜び歌う者とされます。だから私たちも、栄誉が与えられてもすぐに祈りの場所、使命の場所に戻る者でありましょう。家族のため、子どもたちのため、教会のため、地域のため、とりなし続けましょう。成功の暁にも高慢にならず、与えられた栄誉・富・人・機会を、主の使命を全うするために用いましょう。
【結論】
神は時と歴史を支配し、主を仰ぐ者を最善の時に高く引き上げ、敵の企みを反転させる。だから栄誉の時にも祈りと使命に戻るモルデカイの姿勢を学び、今日2026-07-21も信仰の勇気をもって主のミッションを貫こう。高慢を退け、主の定めた時を待ち望み、与えられた祝福を神の栄光のために用いる者となろう。アーメン。
神のタイミング 「ちょうど良い時」と「ちょうど良い場所」で歴史と人々を導かれる神(エステル記6:1-10)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エステル記
- 執筆 :
- pastor 2026-7-16 7:50
「ちょうど良い時」と「ちょうど良い場所」で歴史と人々を導かれる神(エステル記6:1-10)
【概要】
エステル6:1-10を通して、神が「ちょうど良い時」と「ちょうど良い場所」で歴史と人々を導かれること、忘れられているように見える義の働きに必ず報いられることを語るメッセージです。
【聖書箇所】
エステル6:1-10
詩篇127:2
伝道者2:25-26
ルカ18:7-8
サムエル記第一17章(ダビデとゴリアテの文脈参照)
【励ましの言葉】
-
神はちょうど良い時に、あなたの祈りに速やかに応えてくださる。
-
忘れられたように見える善行も、神は覚えておられ、最善の瞬間に報いられる。
【勧めの言葉】
-
昼も夜も主に呼び求め、神が支配するタイムとスペースに信仰で参与しよう。
-
神が良しと認める者となるため、日々、御前に心を正し、清く歩もう。
【悔い改めの促しの言葉】
-
高慢と自己中心を捨て、主の御前にへりくだろう。
-
罪を十字架の前に告白し、主の血潮により清めを受け、主の時に従って歩もう。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記6章1節から10節です。まず、1節から3節を宣言します。「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持ってくるように命じた。そしてそれは、王の前で読まれた。その中に、入り口を守っていた王の二人の宦官、ビグタンとテレシュが王を殺そうとしていることをモルデカイが報告したと書かれているのを見つけた。そこで王は尋ねた。『このことで栄誉とか昇進とか、何かモルデカイに与えたか。』王に仕える侍従たちは答えた。『彼には何もしていません。』」エステル6:1-3。
祈ります。愛するイエス様、あなたはちょうど良い時、場所、タイミング、すべてを整えておられる主です。今日、必要な命の言葉を与え、私たちの罪を赦し、血潮で洗い、清め、御言葉に向かわせてください。初めから終わりまであなたの御手に委ね、主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
エステル記を読むと、神が「ベストタイミング、ベストチョイス」を備えておられることがわかります。前の章でエステルは願い事を一日延ばしました。その一晩で神が働かれました。詩篇127篇には「主は愛する者には眠っている間に備えてくださる」(詩篇127:2の主旨)とあります。ある人には眠りを与え、ある人には眠りを与えない。神が物事を行われる時、眠りさえも主の御手の中にあります。エステル6:1には「その夜、王は眠れなかったので」とあります。まさにその夜、その時に、神がちょうど良いことを備えておられたのです。
王が眠れなかった理由は書かれていません。ただ眠れなかった。体調ではなく、神の御手。私たちの生活でも、神がタイミングを支配されることがあります。ある出来事で出発が遅れ、その遅れが災害から命を守ることがありました。偶然のように見えても、神の御計画が働いていることがあるのです。
その夜に何が起きたか並べてみます。
-
たまたま王が眠れなかった。
-
たまたま王が数ある書物ではなく「年代記」を読ませた。
-
たまたま持ってこられた巻が、たまたま開かれたページがモルデカイの記録だった。
-
たまたまモルデカイがまだ何の報いも受けていなかった。
人は偶然と言うかもしれませんが、神の目にはご計画です。神の設備、神のタイミングが働いていました。さらに4節を見ます。「王は言った。『庭に誰かいるのか。』ちょうどハマンがモルデカイのために準備した柱に彼をかけることを王に願い出ようと、王宮の外庭に入ってきたところであった。」エステル6:4。ここでも「ちょうど」。王がモルデカイの功績に報いを与えたいと心が高まったその直後、ハマンが入ってきたのです。1分遅くもなく、1分早くもないタイミング。神は年単位だけでなく、分単位、秒単位で人を配置されます。
ダビデが石を投げてゴリアテを倒したときも、ヘルメットのわずかな隙間に石が当たる瞬間のタイミングがありました(サムエル記第一17章)。神は何千分の1秒単位でも支配されます。神はタイムだけでなくスペースも支配されます。ハマンは何のために来たのか。4節にある通り、自分の建てた柱にモルデカイをかける許可を願い出るためです。しかし神は彼を全く逆のことに用いられました。ハマンの口を通して、モルデカイを「人々よりもはるか高く」引き上げるために、その場所に立たせたのです。神を知らない人は自分の悪意で動いていると思いますが、実は神の舞台のど真ん中に引き出されているのです。
ハマンの高慢が現れます。6節。「ハマンが入ってくると、王は彼に言った。『王が栄誉を与えたいと思う者にはどうしたらよかろう。』ハマンは心の内で思った。『王が栄誉を与えたいと思う者とは、私以外誰がいるだろう。』」エステル6:6。彼は王が念頭に置いている人物を確かめず、自分だと思い込み、最高の栄誉プランを提案します。7-9節。「『王が栄誉を与えたいと思う者には、王の着る衣を着せ、王の乗る馬に乗せ、その頭に王冠をつけ、その衣と馬を王の高官の一人に渡し、その者が栄誉を与えられる人の前を行き、町の広場でこう触れさせてください。「王が栄誉を与えたいと思う者には、このとおりにされる。」』」エステル6:7-9(文意)。これはハマンが自分のために考えた最高のプランでした。しかし、その高慢そのものが自分を縛る罠になりました。
ここで伝道者の書を思い起こします。「実に、神から離れて、誰が食べ、誰が楽しむことができるだろうか。なぜなら、神はご自分が良しとする人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた虚しく、風を追うようなものだ。」伝道者2:25-26。ソロモンは晩年、神から離れて虚しさを語りました。悪人・罪人にとっては虚しい。しかし神が良しとされる者にとっては、これは喜びの知らせです。悪人が集めるものが、神の時に、主に認められた者へと渡されるのです。
ハマンは栄誉、地位、富を集め、人生最高の栄誉プランを王に進言しました。けれども翌年、彼は地上からいなくなり、彼の家はモルデカイのものとなります(エステル7-8章へ続く文脈)。彼は知らなかった。汗水垂らして準備しているものが、実はモルデカイのためであることを。神はスペースを支配し、タイムを支配される方です。
10節を見ます。「すると王はハマンに言った。『あなたが言ったとおりに、すぐ衣服と馬を取ってきて、王の門のところに座っているユダヤ人モルデカイに、そのようにしなさい。あなたの言ったことを一つも怠ってはならない。』」エステル6:10。王は「すぐに」、そして「一つも怠ってはならない」と命じました。ハマンの企ては逆転し、モルデカイに向けられました。
今日の箇所から受け取ること。報いは忘れられてはいません。神はちょうど良いタイミング、ちょうど良い場所で保管し、開いてくださいます。モルデカイは王の暗殺計画を暴きましたが、4、5年、何の報いもありませんでした。年代記に一筆記されたまま、閉じられていました。しかし、ちょうど良いタイミングの夜に、開かれ、そのページが読まれました。神は忘れておられません。エステル書には「神」も「主」も直接の語が出ませんが、確かに神が働かれました。
さらに、これは報いの話だけでなく、命の救いの話です。モルデカイを処刑する柱はすでに建てられ、ハマンは許可を得るために来ていました。あと数時間でも遅れれば、モルデカイは吊るされていたはず。しかし崖っぷちの前の晩に、神が働かれました。遅れることはありませんでした。イエス様はこう言われました。「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている選ばれた者たちのために裁きを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は彼らのために、速やかに裁きを行ってくださいます。だが、人の子が来る時、果たして地上に信仰が見られるでしょうか。」ルカ18:7-8。神は速やかに裁きを行われます。問題は私たちの信仰です。主が必ず間に合わせ、救い、報い、高く上げてくださることを信じるか。
私たちは昼も夜も主に叫び求めます。主は放っておかれません。速やかに、最高のタイミングで裁きをつけ、報いを与えてくださいます。歴史全体を支配し、1分1秒をも支配される主のタイムとスペースに預かりましょう。悪人が蓄える富も、主が良しとされる者に渡されます。だからこそ、まず神が良しとされる者になりましょう。清められた心で、主の働きを担い、次世代を立て、栄光の働きを広げていきましょう。
最後に祈ります。愛する主よ、あなたのタイミング、あなたのスペースは完璧です。モルデカイが受けたような栄誉を、あなたの民を支えるために与え、私たちを用いてください。罪は十字架で赦され、報いはあなたの最善の時に、利子に利子をつけて返されます。私たちが悔い改め、血潮により買い戻された者として歩み、あなたが覚えておられる善行の報いを受け、王の御前で栄光を現す者としてください。働き人、次世代、土地、建物、知恵と知識を与え、あなたが望まれることを語り、行う教会としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【結論】
エステル6:1-10は、神が見えなくても、神の「時」と「場所」の支配が確かであることを示します。忘れられた善行は、主の最善の夜に開かれ、報いられます。高慢は自らの罠となり、神の民は引き上げられます。だから、昼も夜も主に呼び求め、へりくだり、神が良しとされる者として歩みましょう。主は速やかに、ちょうど良いタイミングで、救いと報いを与えてくださいます。作成日時: 2026-07-16 05:22:48。
