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主日礼拝

無割礼の強者が「仕組み」を強要して来る場合(1サムエル記17章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 ゴリヤテは、身長2.9メートルの巨体に、殺傷力が高い武器や防具を身につけ、幼い時から戦闘訓練を受けてきた能力にモノをいわせ、神の民を脅し、彼のルールを押しつけて来た。「お前らはサウルの奴隷ではないか」「一人よこせ」「勝負して勝ったら奴隷になってやる」「勝負に負けたら、お前達は奴隷になれ」と(4-9節)。イスラエルの軍は彼に気圧され、意気消沈し、40日もの間、朝夕なぶられっぱなしであった。
 私達にもこのような「ゴリヤテ」が立ちはだかるかもしれない。そのゴリヤテは一方的にルールを押し付け、勝手に設けた不利な土俵で勝負するよう要求し、「とても勝てない」と気落ちさせ、なぶられ放題にするような「仕組み」を仕掛けて来る。今、時代が、そうなりつつあるが、聖書には、小さい者が大きな相手を倒す場面が、いくつもある。そのような「ゴリヤテ」がはびこる昨今、その者と渡り合って、勝つ術を学びたい。
 
 イスラエルがなぶられて40日が経った時、少年ダビデは、父からのお使いを頼まれて、そこへ来た。
ダビデは、ゴリヤテが平然とイスラエルをなぶるのを見、また、イスラエルの大人達が皆、彼を恐れて逃げ隠れしているのを見て、大いに憤慨した。ダビデにとって、自分達は「生ける神の陣」なのに、それを、無割礼の者によって良いようになぶられっ放しだったからだ(24-26節)。私達も、きよく保つべき自分の人生や仕事、家庭、経済という「神の陣」を、無割礼の者が好き放題にしているなら、大いに憤り、対処すべきだ。
 サウル王は、そんなダビデを呼び出した。サウルは思ったかもしれない。この少年はきっと、少年にありがちな「全能感」に駆られ、大風呂敷を広げているのだろう、と。しかしダビデには、ゴリヤテを打ち倒す根拠があった(34-37節)。ダビデは羊飼いだったが、羊がさらわれたなら、相手が獅子でも熊でも、いのちがけで取り返す性分だった。その性分こそ、神様が「エッサイの子らの中に王を見つけた」と評価された性質だ。
ダビデは「羊飼い」という、人から見れば「下っ端仕事」をしている間、忠実に羊を守り、獅子や熊からさえも、羊を守ったので、主は彼を、イスラエルを牧する「王」とするために、羊飼いの牧場で鍛えておられたのだ。
私達も「羊」を養う時、軽んじてはならない。その「羊飼い」の仕事は、王になるための訓練だと思うべきだ。
 サウルは、ダビデに、自分のよろいかぶとを着させたが、ダビデは、それが馴染まない、と分かると、躊躇なく脱ぎ捨て、自分に馴染んだ、「羊を養う道具」を採用した。神の国の戦いは、世の手段や常識に合わせて戦おうとすると、合わなくなる。それを用いようとすると、全然身動きが取れないのだ。主の戦いの武器は、殺傷能力の高い世の武器や、暴言や、脅し言葉などではなく、羊飼いの道具、すなわち、養い守るべき”羊達”を守ってきたことば、手段、方法であり、何より、まことの羊飼いであられる主の言葉だ。ダビデは、川から滑らかな石を5つ取って来たように、私達も巨人を倒すためには、御言葉の水の洗いに揉まれて角が取れた”生ける石”を取り、イエス・キリストという岩の土台に立って、敵に立ち向かうのだ。
 
 45節以降のダビデの言葉には、私達が勝利する秘訣が、ふんだんに込められている。「お前は剣と、槍と、投げ槍を持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、お前が挑んだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」 ダビデは、この言葉によって、武器や力の戦いから、自分の神 vs 相手の神という戦いヘと、シフトした。私達も、主イエスの御名を宣言し、シフトすべきである。
「この全会衆も、主は救を施すのに、剣と槍を用いられない事を知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主が我々の手にお前達を渡されるからである」。そう!主は、武器や装備、経済などを使わずに、救う事がおできになる方である!私達も主の約束の言葉に基づいて、イエス様の御名によって、主の戦いである事を宣言し、主に戦っていただくなら、あとは、主が、勝利へと導いて下さる。
 ダビデはそうした結果、石ひとつでゴリヤテを打ち倒し、ゴリヤテ自身の武器でとどめを刺した(49-51節)。
そしてダビデがゴリヤテを倒した時、イスラエルは、ゴリヤテが決めたルールなぞ守らなかった(52-53節)。
神の民はそもそも、無割礼の者が敷いたルールに、従わされるべきではない。むしろ、主にあってルールを敷いて、それに、無割礼の者を従わせるべきである。「ゴリヤテルール」は、ダビデの信仰宣言によって「ダビデルール」へと上書きされ、それによってダビデは、勝利した。人生における戦いや、主にある兄弟姉妹の戦いを、「主の戦い」へとシフトして、相手がどんなに巨大でも、どんなに大軍でも、どんな装備であっても、彼らの拠り所としているものが、無力化され、私達の神の前に倒れ、そしられていた日々の復讐の日々が始まり、滞っていた祝福の流れが流れ出して行く皆さんでありますように!
 

 

 

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

すべての点で幸いを得られる事を邪魔しているものを取り除け(3ヨハネ2節)

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詩篇講解説教

聖なる、聖なる、聖なる主(詩篇99篇)

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詩篇99:1 主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ。
 
「主は王である」という表現が、93篇から反復されている。
その王の王とは、「救い(イエシュア)」をもたらして下さる主、イエス・キリストである。
 
ここの「おののけ(ラガツ)」は、激しい感情、特に怒りや恐怖で震える事で、「震えよ(ヌット)」は、震える、 動かされる意味である。
イザヤ6章では、御使いが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と呼び交わす声に地は震え、主の栄光の臨在で満たされた。
主の臨在を前に、地は、震える。
そして終わりの時代、神に愛された都を守るために大地震が起こり、神に敵対する者達は、揺るがされる。(エゼキエル書38:19-20、啓示録8:5, 11:13,19, 16:18)
 
1節の後半では、主は、ケルビムの上のみ座におられる、と書かれてある。
ケルビムとは、いつも主のすぐそばにはべり、聖と俗とを区切り、聖なる領域を炎で守る役割の御使いであり(創世記3:24、エゼキエル1章)、また、主の臨在を運ぶ役割がある。(詩篇18:10)
主は、そのケルビムの間から御声を発し、語られる。(出エジプト記25:22)
 
 
詩篇99:2 主はシオンにおられて大いなる神、主はもろもろの民の上に高くいらせられる。
詩篇99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名を/ほめたたえるであろう。主は聖でいらせられる。
 
ここでは「大いなる」が反復されて、主の「聖」を際立たせられているが、この「聖」という主のご性質が、3節と、5節、9節で反復されている。
 
「聖(カドシュ)」には「切り分けられた」の意味がある。
聖とは、主なる神の、絶対的かつ排他的なきよさで、罪・汚れのある人間が触れるならたちまち死んでしまう程の、恐ろしいご性質である。
 
預言者イザヤも、その「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」を見た時、絶望した。もう自分は死んでしまう、と。
しかし彼は、聖なる祭壇の炭火によって、くちびるの汚れが清められ、罪が贖われたゆえに、主の聖の前で打たれる事なく、主のつとめに入る事ができた。(イザヤ6章)
祭壇には、犠牲のいけにえが燃やされている。
それが触れる事によって、汚れがきよめられ、罪が贖われたように、私達も、犠牲のいけにえとなってくださったイエス様に触れられるなら、罪が贖われ、清められ、主の聖なる臨在の前に大胆に進み出る事ができるのである。
 
 
詩篇99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは/堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。
 
ここで反復された語は、ミシュパト(司法的に宣告された判決、さばき)であり、主のさばきの性質は、公平であり、正と義である。
 
この節では「ヤコブ」という名が、取り沙汰されている。
ヤコブ(かかと、掴むという意味)には、イスラエル(神と粘り強く格闘(すったもんだ)する)という、素晴らしい名が与えられたが、その与えられた後も、時々、人・物・事の足を掴む「ヤコブ」に戻ってしまった。
 
私達も、本来、神と「すったもんだ」するべきなのに、時には「ヤコブ」に戻ってしまうが、その中でも、主の憐れみ深いミシュパトによって、私達の中の不義は取り除かれ、ますます義なる性質へと練り清められていく、という幸いがある。
 
 
詩篇99:5 われらの神、主をあがめ、その足台のもとで拝みまつれ。主は聖でいらせられる。
 
あがめて、ひれ伏す理由は、主は聖であるからだ。
 
詩篇99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。
 
ここで、祭司としてのモーセとアロンが、また、御名を呼ぶ者としてのサムエルが引用されている。
彼らに共通している事は、主を呼び、そして、主に答えられた事である。
 
私達も、主イエスの御名を呼ぶ者である。
主イエスにあって、祭司たちの中に、私達もいる。
主を呼ぶ者達の中に、私達もいる。
そして私達は、イエス様にあって、預言者であり、そして、王である。
 
私達の分は、主の御名を呼び、神と人との間に立ってとりなし祈り、また、主から御言葉をあずかって、それを人々に届ける事、
そして、主にあって「王」として、治める事である。
 
詩篇99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。彼らはそのあかしと、彼らに賜わった定めとを守った。
 
あかし(エダー)は、他にも証人、証言という意味がある。
定め(ホック)は、制定されたもの、戒め、法律である。
終わりの時代において、主人公となる人とは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」である。(黙示録12:17、14:12)
 
 
詩篇99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。
 
「主は答えられた」というキーワードが、反復された。(6節)
主を呼び求めるなら、確かにゆるしが与えられる。
しかし同時に、主は、それぞれの「しわざ」に応じて報いる方である、という事も、忘れてはならない。
 
 
詩篇99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである。
 
あがめよ、とは、高くせよ、という事であり、
拝みまつれ、とは、低くなれ、という事である。
すなわち、主を高く上げ、自分は低くなるべきである。
 
なぜなら、主は聖でいらせられるからだ。
 
こうして、詩篇99篇では、「主は聖である」が3回、反復された。
聖なる、聖なる、聖なる主。
 
私達も、イザヤが体験したように、聖なる主の臨在の前に震えおののきつつ、十字架の上で犠牲となられたイエス様よって清められ、贖われ、主のあかし人となり、神と人との間に立つ祭司として取りなし、祈り、また御言葉を伝え、王として統治する者である。

詩篇講解説教

イエスを通して全世界が救われた事をあらわす詩篇(詩篇98篇)

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詩篇98:1 新しき歌を主にむかってうたえ。主はくすしきみわざをなされたからである。その右の手と聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。

 

私達・神の民が、新しい賛美をつくり、新しいメロディを作曲して主をほめたたえる事は、主の命令である。

それは、主が「くすしきみわざ」をしてくださったからだ。

 

「くすしきみわざ(パーラー)は、元々は「分離する、区別する」の意味で、そこから、神にしかできない不思議、奇蹟という意味となった。

ただ主にしか出来ない、差別化された不思議、奇跡である。

それは、主の右の御手と、聖なる腕によってもたらされ、勝利がもたらされた。

 

 

詩篇98:2 主はその勝利を知らせ、その義をもろもろの国民の前にあらわされた。

 

この節をヘブライ語で見ると、実は、新約福音のエッセンスが記されている。

 

直訳すると、

「主は、イエシュア(救い=イエス様)を知らされた。彼の義を公に、ゴイーム(異邦人達、異邦の国々)の目に。」

 

この内容は、まさに、イエス・キリストの福音ではないか!

 

その救いは、1節にある通り、「御手によって」もたらされた。

 

イエシュア(イエス様)の御手には、十字架の釘跡がある。

全人類を贖って救いをもたらした、あの十字架の釘跡が。

 

それ故、黙示録にあるとおり、全被造物は、ほふられた小羊キリストを、こぞってほめたたえるのだ。

 

 

詩篇98:3 主はそのいつくしみと、まこととを/イスラエルの家にむかって覚えられた。地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見た。

 

主が覚えておられたのは、主の恵みと真実のゆえである。

人類に罪と死が入ってしまった時、主は、人を救う「女の子孫」をつかわし、彼が蛇のかしら、すなわち、サタンのかしらを踏み砕く、と、約束して下さった。

その恵みと真実を、主はずっと覚えておられ、時至って、イエシュア(イエス様)がこの世に遣わされ、彼によって救いがもたらされた。

 

4節以降に、その故の賛美の命令が記されている。

 

 

詩篇98:4 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。声を放って喜び歌え、ほめうたえ。

 

人は、全被造物に向かって命令する立場にある。(創世記1:28)

全被造物を命令するに値する人とは、「主にある人」である。

主にない者が、全被造物を支配すると、被造物をうめかせてしまう事になる。

今、まさに被造物は、うめきの中にある。

 

 

なお、ここで反復されている言葉は「喜ばしい声をあげよ」「喜びうたえ」である。

 

私達の中から、主への賛美が沸き起こって来る、その源は、まさに、救われた事の喜びと、主が真実であられる事ゆえだ。

 

賛美は、主の救いの確信に基づいた源があってこそ、できるものである。

たとえ喜べない状況であっても、主を賛美するなら、救いの確信と喜びが沸き起こって来る。(詩篇34篇)

 

もし、賛美によって、怒りや恐れ、悲しみが沸き起こってくる人があるとするなら、その人は、悪霊に憑かれた人である。

その人の中にいる悪霊が、賛美の内に住んでおられる主を怖がり、悲しんでいるのだ。(1サムエル記14章)

 

 

詩篇98:5 琴をもって主をほめうたえ。琴と歌の声をもってほめうたえ。

詩篇98:6 ラッパと角笛の音をもって/王なる主の前に喜ばしき声をあげよ。

 

ここで反復されている「ほめ歌を歌え(ザーマル)」は、元の意味は「指で打つ」、そこから、弦楽器や鍵盤などを打って、楽器を演奏する、あるいは、声でメロディをかなでる意味となった。

賛美の際には、音に出せ、という事である。

 

礼拝中であろうとなかろうと、賛美をする時は、口パクするべきではない。

主をほめたたえる時は、実際に声に出し、また、色々な楽器をたくみに用いて、メロディを出すように、と、命じられているからだ。

その命令は、全被造物に対して、である。

 

 

詩篇98:7 海とその中に満ちるもの、世界とそのうちに住む者とは鳴りどよめけ。

詩篇98:8 大水はその手を打ち、もろもろの山は共に主のみ前に喜び歌え。

 

海も、川も、山も、実は主をほめ讃え、主の栄光をあらわしている。

人は、人と人との間にいる時に病む事はあっても、自然の中にいると、癒やされ、なごむのは、全ての創造主、愛なる主の栄光があらわれているからだ。

 

 

この詩の最後には、主がさばきのために来られる事を宣言している。

 

詩篇98:9 主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。

 

主の民は、主のさばきを、喜びとして受け止めることができる。

しかしサタンとそれに属するものは、主のさばきを、糾弾材料として、あるいは恐怖や悲しみとして受け止める。

主のさばきは「公正」である、と書いてあり、公正なさばきは、主の民にとっては慰め、不正を愛する者にとっては都合が悪いからである。

 

最終的には、天も、地も、地の下も、その被造物も、また、そこで生きる全ての生き物も、こぞって主をほめたたえる事になる。

 

黙示録5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。

黙示録5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

黙示録5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

黙示録5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

 

 

霊的イニシアチブを取れ(エペソ6:12)

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主日礼拝

アブラハムの7つの祝福を受けるためには(創世記12:1-3)

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English Service:We always ought to pray and not lose heart(Luke18:1-8) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 3月となった。今月のカレンダー聖句は、創世記12:2-3である。そこには、主が私達の信仰の父・アブラハムに約束された7つの祝福が記されている。私達もアブラハムに習うなら、その祝福を受け継ぐ事ができる。その祝福とは、どんな祝福で、どうしたらその膨大な祝福を受けられるのか、その条件を見てみたい。
 
 アブラハムに与えられた、7つの素晴らしい祝福を受ける条件は、1節の「レフ・レハーלֶךְ־לְךָ」である。
「レフ」は「ハーラフהָלַךְ」の命令形で、ハーラフには「行く、来る、歩む」など色々な意味がある。その次の「レハー」は、多くの訳では訳出されていないが、「あなたのために」という重要な意味がある。つまり「レフ・レハー」は、「あなたのために行け・来い・歩め」である。神様の「行け」という命令は、結局、私達のためだ。もし神様が「行け」と言っているのに、行かないなら、それは私達のためにはならず、滅びに至ってしまう。
そして祝福を受ける条件は、「出て行くレフ・レハー」が3種類、「目指して行くレフ・レハー」が、1種類ある。
出て行くべき3つとは、「エレツ(地,土地,国)」、「モレデット(出生地,親族,同族)」、「ベイト・アビィカー(父の家,先祖の家、生まれながらの所)」である。 アブラハムが生まれ育ったカルデヤのウルは、バベルの近くの偶像崇拝が盛んな町で、ヨシュアは次にように言っていた。『あなた方の先祖達、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、皆、他の神々に仕えていた』(ヨシュア記24:2)
 私達も、自分が生まれ育った国や、親族、先祖伝来の風習で、主に嫌われる性質があるなら、そこから「出る」べきである。今までの、主を知らずに生きて来た生き方で身についてしまった主に忌み嫌われる性質から、あなたのために「出て行き」、主の元に「来て」、主と共に「歩め」、それが、祝福の前提条件である。
 
 次に、目指して行くべき一つの「レフ・レハー」とは、主が見させ、解らせ、理解させ続ける(ラアーの未完了態)、「あの地」(1節後半)、と主は言われる。それは、地上のどこか特定の場所ではない。主が見させてくださる地、「ここがそれだ」と、私達に理解させて下さる地である。事実アブラハムは、どこかの場所に定住するという人生は送らず、ある時はヘブロンに、ある時はベエル・シェバに宿り、いずれも、主が「ここがそれだ」と理解させて下さった地に、天幕を張った。私達も同じである。主が「ここだ」と言っておられるのが、私達に「わかる」その場所が「そこ」なのであり、その「場所」とは、その時々で、変わる。そこの場所がどこかは、重要ではない。私達にはただ、神様と共に「ハーラフ(行く、来る、歩む)」する事こそ、重要なのだ。
 
 このように「レフ・レハー」するなら、主から与えられる7つの祝福が2-3節にある。その動詞には強意・能動態(ピエル態)がふんだんに使われており、詳訳すると、次のようになる。 ?あなたを、人々の前で、大いなる・重要な・際立った人に、し続ける(未完了継続)。 ここの「人々」と訳された語「ゴイ」は、人々やイナゴなどの「群れ」を意味する。アブラハムの祝福の条件を満たす人は、人々の間で、際立った、重要な人となり、周囲の人々は、単なる「群れ」のようになるのだ。 ?わたしはあなたを、断じて祝福する!(ピエル態)
?わたしはあなたの名を、断じて大いなる者とする!(同) ?あなたの名は、祝福となれ!(命令形) ?わたしは「あなたを断じて祝福し続ける人」を、わたしも断じて祝福する! ?「あなたを断じて軽んじ呪い続ける者」を、わたしも呪い続ける! ?地上の全てのやからは、あなたによって祝福された(受動・完了)。
 
 以上のような、素晴らしい祝福を受ける条件が、3種類の「出て行くレフ・レハー」と、1種類の「目指して行くレフ・レハー」だった。この、主と共に「歩む(ハーラフ)」事こそ、神の民の必須条件であり、祝福に不可欠な性質である。エノクとノアは、「神と共に歩んだ(ハーラフ)」と記されており(創世記5:22-24, 6:9)、ダビデも、主と共に歩んでいるなら、そこがたとえ、死の影の谷であっても、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが、追いかけて来る、と告白した。(詩篇23編)
 アブラムに、祝福の名「アブラハム」が与えられた時、主は「ハーラフ」を命じられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み(ハーラフ)」、全き者であれ。」(創世記17:1) ここの「歩み」はヒットパエル態、すなわち、自ら主体的・自覚的・自発的に、主とともに歩みなさい、それが「全き者」の条件である。
 自分から主体的・自発的に、主の忌み嫌われる所から出て行き、主の「行け」と言われる所へ行き、そこで主と共に歩み、全き者となって、アブラハムに与えられた7つの祝福を得ていく私達でありますように!

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

悪しき者の定めた法令は御言葉の法則で上書きせよ(エステル8章)

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エゼキエル書講解説教

主はここにおられる(エゼキエル48:23-35)

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エゼキエル書の最後は、町(都)の描写をもって閉じている.
 
エゼキエル48:30 町の出口は次のとおりである。北の方の長さは四千五百キュビトである。
エゼキエル48:31 町の門はイスラエルの部族の名にしたがい、三つの門になっている。すなわちルベンの門、ユダの門、レビの門である。
エゼキエル48:32 東の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。
エゼキエル48:33 南の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちシメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。
エゼキエル48:34 西の方は四千五百キュビトであって、三つの門がある。すなわちガドの門、アセルの門、ナフタリの門である。
 
この都は、一辺4千5百キュビト(約2キロメートル)の正方形で、四方の城壁にはそれぞれ3つの門があって、合計12の門がある。
そして、それぞれの門には、12部族の名が付けられている。
 
ここにおいて記されるイスラエル12部族の名で、特徴的な事は、ヤコブ(イスラエル)の12の息子の名が、一つも欠けていない事である。
 
聖書の他の箇所でイスラエル12部族が示される時、大抵は、レビとヨセフは除外され、代わりにヨセフの二人の子・エフライムとマナセが12部族として名を連ねる場合が多い。
それは、ヤコブが、ヨセフの子マナセとエフライムをヤコブの直接の子としたためであり(創世記48:5)、また、レビにはゆずりの地は無い代わりに、全部族からの全ての十分の一が与えられ、主ご自身が、彼らのゆずりだからである。(民数記18:20-21)
 
しかしこの都は、人間的な、地上的な決まり事から、全て解かれ、本来それぞれに与えられたものが回復している。
 
 
そしてエゼキエル書の最後は、都の名前「ジェホバ・シャーマーְהוָה שָׁמָּה」で終わる。
 
エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
 
この都の名、「ジェホバ・シャーマーְהוָה שָׁמָּה」の意味は、「主はここにおられる」である。
その名は、インマヌエル(イザヤ7:14,マタイ1:23)と同じく、契約の主の臨在を表している。
 
そして、「主はここにおられる」の究極的成就が、黙示録21章に記されている。
 
黙示録21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
黙示録21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
黙示録21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
黙示録21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
 
この都は、「主が共に」が成就し、永遠に続く都であり、その都の正体は、キリストの妻なる花嫁、すなわち、教会である。
 
黙示録21:9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
 
 
この都にも、エゼキエル書の記述のように、東西南北に門が3つづつあって、それぞれに、イスラエル12部族の名が記されている。
のみならず、12の土台のそれぞれには、新約の、イエス様の12使徒の名が記されている。
 
黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
黙示録21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
黙示録21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
黙示録21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
黙示録21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
 
 
都には、神の聖徒たちの名が記されている。つまり、都の構成要素は、私達・聖徒たち、という事だ。
エペソ書にも書いてある。
教会(都)はキリストのからだであり、キリストの花嫁であり、そしてそのかしらは、花婿キリストである。
 
エペソ5:25 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
エペソ5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
エペソ5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
エペソ5:28 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
エペソ5:29 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
エペソ5:30 わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
 
 
からだには色々な器官があるように、一人一人のそれぞれの役割は違う。
 
エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
エペソ4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
エペソ4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
 
黙示録3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
 
 
結局、「主がともにおられる」事の成就・完成は、インマヌエルと呼ばれるイエス様にあって、為されるなのだ。
 
その都には、主ご自身がおられ、都のどこでも、主の栄光と臨在で満ちている。
黙示録21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
黙示録21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
 
 
このように、「主がともにおられる」は、神の言葉を守り行う聖徒たちによって、構成される。
出エジプトした民が、荒野において、神の幕屋を中心に行進して行く時も、そうだった。
神の幕屋を中心に、東西南北に3部族ずつ、「十字架」の形で配置された時、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、主がともにおられる事をあらわされた。
 
しかし、主の御言葉を信じず、主の言葉どおりに行わないなら、主は、共にはおられない。
民数記14:43b 「あなたがたがそむいて、主に従わなかったゆえ、主はあなたがたと共におられないからである」。
 
 
エゼキエル書は、イスラエルの民が、度重なる違反を、主の前に積み上げている事に対する警告で始まりった。
しかしイスラエルの民は、その警告を聞かなかった。
 
そうしていると、ついに、「主が共におられる」事をあらわす主の栄光が、神殿から離れ、ついには都から離れてしまった。(10章)
すると、バビロンが来て、都は破壊され、神殿も破壊されてしまった。
 
しかし後に、主はエゼキエルに神殿の幻を見せ、それを、主のはかりざおで正確に測って行くと、主の栄光が帰ってきた。(43章)
出エジプト記においても、神の幕屋についての詳細な様子と寸法が示され、それを寸法どおりに正確に造り、それが完成した時、主の栄光の臨在があらわれ、幕屋に満ちた。(出エジプト記40章)
 
「主がここにおられる」は、聖徒たちが、主の御言葉どおりを正確に行う所に、あらわれるのだ。
 
こうしてエゼキエル書は、「主はここにおられる」という、主の御名が付された町の名前で終わった。
そして、聖書の終わり(黙示録)も、主がともにおられる都によって終わる。
 
結局、私達のこの地上の人生は、主の御言葉を守り行い、「主が共におられる」を礼拝において、そして生活の現場において現すものである。
そうして至る所に神の国を建設し、それが、主の定められた時に至って完成するまで、私達はそれを続けるのみである。

神の敵に定められているさばきと、栄光を受けられる主(エゼキエル39章)

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いつでも祈るべきであり、失望してはならない(ルカ18:1-8)

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昨日のエゼキエル書38章のメッセージについて、質問を受けた。
 
もう聖書に書いてある終末のシナリオは、スタートしてしまったのだろうか。
もしそうだとしたら、聖書で既に確定してしまっている災いや艱難については、もう祈ってもしょうがないのだろうか、と。
 
まず、終末のシナリオが始まってしまっているなら、もう祈っても仕方がないのだろうか、という質問に対しては、「仕方がなくはない」である。
というのは、預言されていた災いが、間近に迫っているのを見た人達が、悔い改め、また、聖徒たちが取りなし祈った事によって、主は、災いやさばきを降さなかった、あるいは、遅らせて下さった記述が、聖書には幾つかあるからだ。
創世記18-19章しかり、1列王記21:29しかり、ヨナ書しかり。
 
そういうわけで、もう終末のシナリオがスタートしてしまったのかどうか、という質問に対しては、私達聖徒達が、あきらめずに取りなし祈り続けるかどうか、また、人々が悔い改めるかどうか、に、かかっている、というのが、答えである。
 
主は、日夜叫び求める選民の祈りに、聞いて下さるお方である。
イエス様も、言っておられる。
 
ルカ18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。
18:3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。
18:4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
18:6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
18:7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
18:8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
 
ここでイエス様は、失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられているが、
私達が特に気をつけるべきは、イエス様が最後に言われた事だ。
 
「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」
 
つまり、地上に信仰がなくなって、取り成す祈り手が無くなり、悔い改める人もいなくなった時、
その時に、大艱難の時代が来る、という事なのかもしれない。
 
イエス様が別の箇所で警告されたのは、
その日は「誰にも分からない」「盗人のように来る」「だから目を覚ましていなさい」
という事だ。
 
そういうわけで、今日、私達が受けるべきメッセージは、
私達はいつも、目を覚まして、時代を見張り、祈り続ける必要がある、という事だ。
 
終わりの時代において気をつけるべき事として、イエス様が真っ先に言われた事は、人や情報に惑わされないように、という事である。
 
マタイ24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
 
終末の時代、は色々なうわさや情報が飛び交い、それによって人の心は荒波のように揺れ動く。
人は不真実であり、諸々の情報も、おいそれと信じる事のできないものであるが、
しかし唯一、信じるに値するもの、決して変わらないものがある。
それは、神の御言葉だ。
 
その御言葉は、言っている。
忍耐して、祈り続けなさい、と。
 
今、ウクライナにおける戦争や、騒乱を主導した者は、時代に働く、霊的な、闇を握った世の主権者、天にいる諸々の悪意を持つ霊的存在達である事を、既にエペソ6章から学んだ。
私達は、この霊的勢力と、格闘するべきである。
 
この者達と戦うために、私達が取るべき霊的武具は、
「真理」「正義」「平安の福音の準備」「信仰」「救い」、
そして「神のことばという御霊の剣」である。
 
この戦いは、「ゆずった・ゆずらない」「容認した・容認しない」という、
「意思と言葉の場所取り戦争」である。
 
それは、この聖書のマニュアルどおり戦うなら、必ず勝てる戦いであり、勝利の鍵は、
いかに「しつこく」真理に立ち、祈りと御言葉で攻撃し続けたか、であった。
 
今、私達は、戦火の下で苦しんでいる人達に、物理的支援はできないとしても、
祈りと御言葉の宣言によって、闇の勢力の、霊的な権威に、攻撃をし続ける事ができる。
それは、有効な攻撃である。
 
エペソ6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
 
目を覚ましつつ、いつも祈り、
時代に働く暗闇の勢力を打ち砕き、平和を世にもたらして行く私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
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