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主を怒らせる事柄については、戦いも辞さず(ヨシュア記22:10-20)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-8-21 23:04
礼拝説教メッセージ音声:主を怒らせる事柄については、戦いも辞さず(ヨシュア記22:10-20):右クリックで保存
『ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地のヨルダンのほとりにきた時、その所で、ヨルダンの岸べに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった。イスラエルの人々は、「ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地の国境、ヨルダンのほとりのイスラエルの人々に属する方で、一つの祭壇を築いた」といううわさを聞いた。イスラエルの人々が、それを聞くとひとしく、イスラエルの人々の全会衆はシロに集まって、彼らの所に攻め上ろうとした。』(ヨシュア記22:10-12)
今まで忠実に、一緒に戦ってきたルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨシュアから祝福の内に送り出されたが、彼らは自分の領地に帰る途中、ヨルダン川沿いに、大きな祭壇を築いた。
それを聞いた全イスラエルは、彼らに対し戦いを仕掛けようとした。
これは一体、どういう事なのか。
申命記12章によると、主に捧げ物を捧げるべき祭壇が置かれるのは、ただ、主が選ばれた場所でのみ、許されており、それ以外の場所に祭壇を築いて、いけにえを捧げる事は、主以外のものにいけにえを捧げる主への反逆に等しい行為であったわけである。
実際、ヤロブアムの時代に、北イスラエル王国はエルサレム以外の場所に祭壇を築き、そこでいけにえを捧げるようになったため、主の怒りを買った。(1列王記12章)
モーセの命じる所によると、もし、イスラエルの中のある町で、主以外の神に仕えるような事を聞いたなら、よく調べ、真偽を問いただし、その事が本当だという事であるなら、その町を聖絶し、永遠に廃墟としなければならない。(申命記13章)
今回、このような事が部族レベルで行われた疑惑が沸き起こったため、他のイスラエル部族は、事の真偽を問いただすために、祭司ピネハスと部族長たちを遣わしたのである。
私達も、兄弟姉妹が何か主を怒らせるような事をしていると聞いた時、その人に対し、何のアクションもしないのは、良くない。
あるいは、単にうわさを聞いただけで真偽をよく確かめもせず、いきなり面と向かって怒りを燃やすのもいけない。
まずは、その事をよく問いただす所から始めるべきなのだ。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)
日本人は、和をもって尊しとする文化であるので、そのように、面と向かって戒める事にやりづらさを覚える人は多いかもしれない。
しかし、主を怒らせている事に関しては、見てみぬふりをしたりせず、正面から対応して、交わりを清く保つべきなのだ。
ヨシュアの時代のイスラエルには、そのような真摯さが生きていた。
『「主の全会衆はこう言います、『あなたがたがイスラエルの神にむかって、とがを犯し、今日、ひるがえって主に従うことをやめ、自分のために一つの祭壇を築いて、今日、主にそむこうとするのは何事か。ペオルで犯した罪で、なお足りないとするのか。それがために主の会衆に災が下ったが、われわれは今日もなお、その罪から清められていない。
しかもあなたがたは、今日、ひるがえって主に従うことをやめようとするのか。あなたがたが、きょう、主にそむくならば、あす、主はイスラエルの全会衆にむかって怒られるであろう。』(ヨシュア記22:16-18)
このペオルでの事件、すなわち、イスラエルの男が異邦の女と不品行の罪を犯し、多くの人達が倒れた、あの事件からは、かなりの時が経っているはずであるが、イスラエルは未だにその影響を、何らかの形で引きずっていたようだ。
『ゼラの子アカンは、のろわれた物について、とがを犯し、それがためイスラエルの全会衆に、怒りが臨んだではないか。またその罪によって滅びた者は、彼ひとりではなかった』」。』(ヨシュア記22:20)
アカンが聖絶のものを残してイスラエル全体に災いを招いてしまった事件の時も、アカンの他の30数名が犠牲になってしまった。
ちょっとしたつまづきをイスラエルに持ち込み、それを野放しにする事は、イスラエル全体に災いを招く事になってしまうのだ。
新約において、パウロも同じ事を言っている。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)
ルベン族、ガド族、マナセの半部族といえば、戦いの時には、他の部族に先立って一緒に戦ってくれた部族である。
そうではあっても、主の嫌われる事が行われている、という疑いが生じたならば、真偽を確かめに行き、もしそれが本当であるなら、戦闘をも辞さない、という気構え。
これは、ヨシュア達に与えられている祝福、すなわち、何をしても栄え、誰も立ちはだかるものは無く、主から決して見放される事も見捨てられることもないという祝福を受けるために、必要なものである。
約束を満了したルベン、ガド、マナセの半部族(ヨシュア記22:1-9)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-8-18 14:46
礼拝説教メッセージ音声:約束を満了したルベン、ガド、マナセの半部族(ヨシュア記22:1-9):右クリックで保存
『時にヨシュアは、ルベンびと、ガドびと、およびマナセの部族の半ばを呼び集めて、言った、「あなたがたは主のしもべモーセが命じたことを、ことごとく守り、またわたしの命じたすべての事にも、わたしの言葉に聞きしたがいました。今日まで長い年月の間、あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主の命令を、よく守ってきました。
今はすでに、あなたがたの神、主が、あなたがたの兄弟たちに、先に約束されたとおり、安息を賜わるようになりました。それで、あなたがたは身を返して、主のしもべモーセが、あなたがたに与えたヨルダンの向こう側の所有の地に行き、自分たちの天幕に帰りなさい。』(ヨシュア記22:1-4)
ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、イスラエルがまだヨルダン川東側にいて、カナンに攻め入っていなかった時、他の部族に先んじて、ヨルダン川東側に相続地をいち早く得た部族であるが、彼らは他に先んじて相続地を得る代わりに、ある約束を神と人との前でしていた。
ヨルダン川の東側地域をイスラエルが制圧した時、彼らはこの地を自分達に与えて下さい、そしてヨルダン川は渡らせないで下さい、と、モーセに願い出たのだが、その願いは、モーセを怒らせた。
これから他の兄弟姉妹がまだまだ戦おうとしている、というのに、あなた達はこの地を先に得て、そこで安穏とし、他の兄弟姉妹のやる気をくじくつもりなのか、と。(民数記32章)
それで彼らは、約束したのだ。
自分達は、この地を先に得る代わりに、他の兄弟姉妹達が出る戦いに一緒に進み行き、イスラエルの皆が、それぞれの相続地を得るまでは、自分達の所には帰らない、と。(民数記32:16-19)
モーセは、その事を神と人との前で公に約束させ、そしてそれ以降、彼らはその約束に忠実に従い、兄弟姉妹達と共に戦ってきたのだ。
そして今や、イスラエル全部族は、安住の地を得て、彼らの責任は、満了した。
だからヨシュアは彼らに、よくぞ今まで忠実に仕え、約束を守って来た、と、褒めたのだ。
『ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた戒めと、律法とを慎んで行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主につき従い、心をつくし、精神をつくして、主に仕えなさい」。そしてヨシュアが彼らを祝福して去らせたので、彼らはその天幕に帰った。』(ヨシュア記22:5)
ヨシュアは、彼らを送り出す前に、守るべき御言葉を与え、そして祝福した。
また、実体のあるものも彼らに与えた。
『「あなたがたは多くの貨財と、おびただしい数の家畜と、金、銀、青銅、鉄、および多くの衣服を持って天幕に帰り、敵から獲たぶんどり物を兄弟たちに分けなさい」。こうしてルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばは、主がモーセによって命じられたように、すでに自分の所有地となっているギレアデの地に行こうと、カナンの地のシロで、イスラエルの人々と別れて帰って行った。』(ヨシュア記22:8-9)
労を負って、一緒によく働いて来た兄弟姉妹は、手ぶらで帰らせるものではない。
申命記にも記されている通りである。
『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)
もし兄弟姉妹が落ちぶれてしまい、奴隷として身売りするような事になったとしても、それは6年という期限付きであり、しかも、7年が満ちた時には、失業して路頭に迷うような事がなく、しっかりと自分の家庭を築いて、身を立てて行く事ができるように、何も持たせずに出て行かせてはならない、と、主は命じている。
現代日本では、非正規雇用の人達は、一ヶ月やっと暮らせる程の給料のまま、何十年も働かされ、30,40代になっても手に職を持てず、結婚も、マイホームも持てない状態で年老いていくような状況に陥りやすいが、それは、主の御心を大いに反している事であり、主の御怒りを引き起こすものである。
もし私達が、ルベン族やガド族のように、他の兄弟姉妹に先んじて幸いと安定が与えられたなら、それで他の兄弟姉妹を助けなくてはならない。
彼らをほったらかしにするのではなく、彼らが安定するまでは、しっかりと一緒に働き、共に戦うべきである。なぜなら、それは、自分の力で勝ち取ったのではなく、主から「与えられた」からだ。
そして、神と人との前に約束した事は、満了するまではしっかりと実行し続けるべきであり、また、忠実に働いた兄弟姉妹に対しては、祝福の御言葉と、実際的な助けを与えるべきである。
そのような正当な関係こそ、神の民であり、主にある兄弟姉妹である私達に相応しい形である。
ハガル - サライの女奴隷(創世記16:1-16)
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第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
前回の箇所で、主はアブラムの子孫を、空の星のように数多くすると仰せられ、燃える炉として現れてその約束の確かな事を示されたが、それでも、すぐに子が与えられる、というわけではなかった。
主ははっきりと「あなたから生まれる子がこの地を継ぐ」と仰せられたのに、中々子が与えられない。
サライはその事に焦りを感じたのか、女奴隷を自分の身代わりとして主人に子を産ませ、それを正妻の子としようという”当時の風習”を用いて、神の未だ成就されていない約束を「こじつけ」的に補完しようと提案した。アブラムは、サライのその提案に、乗ってしまった。
神の言葉に身勝手な解釈を施し、それを夫に薦めて、夫の方は、神より妻の声を優先させてしまう。
ここにアダムとエバの失敗と同じパターンを見る。このパターンは、後々、苦い根が長くつきまとうものだ。
サライは「たぶん」と言った。世では皆もやっているからと、軽く考え、それがいかに主の力を無視する行為か、また、実際ハガルが身ごもった時、自分がどんな惨めになるか、あまり考えていなかったかもしれない。
実際、女奴隷ハガルは、すぐに身ごもった。そしてハガルは、女主人であるサライを見下げるようになった。
サライは、女として、若さや子を宿す力など多くの面で、ハガルに劣っている事が、浮き彫りにされてしまい、ますます惨めになってしまった。彼女は、世の解決法に従って行動してしまった結果、世の価値基準に従って嘲られ、世の側から見下げられてしまったのだ。
自分由来の何かに頼る事を「肉のわざ」と言うが、彼女がそれに頼った結果、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」という肉の実(ガラテヤ5:19-21)が見事、結ばれてしまったのだ。
御国の子らが、御国の方法を退け、世の方法・肉の方法に服従するなら、やがてはそれによって見下げられ嘲られてしまうものだ。世の子らは、世の事については、光の子らよりも抜けめがないからだ。(ルカ16:8)
サライは言った。『わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。』(5節)
サライが考案して勧めておきながら、アブラムのせいにするのは不当と思うかもしれないが、確かに彼にも責任がある。妻が御言葉を「超」解釈して薦めてきたなら、主人たる者は、御言葉を根拠に妻をたしなめなくてはならないし、また、女奴隷が正妻を押しのけるような「管理不行き届き」は、容認すべきでない。
『 アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。』(6節)
アブラムが受胎を聞いた時は、彼には喜びだったかもしれない。しかし、肉に由来する幸いは、ほんのつかの間であり、結局、人間由来の思いつきは、そこにいる全ての人に、苦々しい思いをさせるだけなのだ。
ハガルは、シュル(エジプト方面)へ逃げていく途上、主の使いに見つけられ、声をかけられる。
「”サライの女奴隷ハガル”よ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
主の使いは、ハガルに「サライの女奴隷」と呼び、彼女の本来の立ち位置を思い起こさせたのだろう。
彼女は「”私の女主人サライ”のところから逃げている所です」と、身をわきまえた、正しい答えをした。
主の使いは、あなたの女主人の元に帰り身を低くしなさいと諭し、そればかりでなく「あなたの子孫は大いにふやす」と、祝福の約束まで与えられた。柔和な者、身を低くしへりくだる者は、地を相続する。
私達も、立つべき立ち位置はどこか、本来仕えるべきお方は誰かを、正しく受け入れ、告白するなら、祝福をいただける。しかし、アダムやカインのように、自分のよかれを主張し、他人を訴えるなら、呪われてしまう。
主は、生まれて来る子に、イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)という名をつけるよう命じられた。
そしてハガルは、主を、「あなたはエル・ロイ(神は見ておられる)」と呼んだ。
荒野で学んだ彼女は、主の言葉どおり、本来あるべき立場・本来あるべき女奴隷としての態度に戻った。
戻った時、彼女は、この荒野での出来事を、アブラム達に報告しただろう。そして夫婦ともども、「エル・ロイ(神は見ておられる)」「イシュマエル(神は聞かれる)」という名を聞き、自分の身勝手を恥じ入っただろう。
結局の所、今回の騒動は、サライやアブラムの身勝手な判断と行動から出たのだが、その全てを超えて、主は生きておられる方、見ておられ、聞いておられるお方であると、ハガルを通して教えられたのだ。
肉的なやりくりに頼らず、ただ主に信頼し、過ち無く歩む皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
川越純福音教会断食聖会メッセージ1(ルツ記1章):右クリックで保存
川越純福音教会断食聖会メッセージ2(ルツ記2章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主に帰るなら祝福が帰ってくる(ルツ記1章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
安息日の主(マタイ12:1-8):右クリックで保存
悪者が百度悪事を犯してもなお平気な事がある理由(伝道者の書8:9-17)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 伝道者の書
- 執筆 :
- pastor 2014-8-17 1:05
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪者が百度悪事を犯してもなお平気な事がある理由(伝道者の書8:9-17):右クリックで保存
【概要】
神の憐れみと裁きについての説教。悪者が栄えるように見える状況での正しい生き方を教える。
【聖書箇所】
伝道者の書8:9-17
黙示録20:11-15
第二ペテロ3:8-9
【慰めの言葉】
神は一人も滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。
【励ましの言葉】
イエス・キリストを信じ、招き入れるならば、そこは天の御国となります。
【戒めの言葉】
地上の人間の行いにばかり目を向けず、信仰の創始者であり完成者であるキリストに目を向けましょう。
【勧めの言葉】
御言葉を守り行い続けることで、人生から茨やアザミが取り除かれ、清められていきます。
【悔い改めの促しの言葉】
悪者が栄えているように見えても、その道に従わず、神の子として光の子どもとして歩みましょう。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書8章9節から17節までです。ここでソロモンは、この世で悪者が栄え、正しい者が苦しむという現実を目にして、そのむなしさを語っています。
「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。」(伝道者の書8:11)
この状況は、私たちの周りでも見られることでしょう。しかし、これは地上での一時的な状況に過ぎません。聖書は、最終的な裁きが必ず来ることを教えています。
黙示録20章11-15節には、最後の白い御座の裁きについて記されています。
「また私は死んだ人々が、大きな者も小さな者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは命の書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20:12)
この箇所は、すべての人が最終的に自分の行いに応じて裁かれることを明確に示しています。では、なぜ神は今すぐに悪を裁かないのでしょうか?それは神の憐れみのゆえです。
第二ペテロ3章8-9節にこうあります。
「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
神は、悪者たちが悔い改めて立ち返る機会を与えておられるのです。これは神の憐れみの表れです。しかし、多くの人々はこの憐れみを誤解し、「神は悪いことをしても許してくれる」と思い、さらに悪を重ねてしまいます。
私たちクリスチャンは、この世の状況に目を奪われるのではなく、イエス・キリストに目を向け続けるべきです。イエスを信じ、御言葉に従うことで、私たちの人生から罪という茨やアザミが取り除かれていきます。
「私は快楽を賛美する。日の下では食べて飲んで楽しむより、ほかに人にとって良いことはない。」(伝道者の書8:15)
ソロモンはここで、人生を楽しむことを勧めています。しかし、私たちクリスチャンにとっての真の喜びは、神との関係の中にあります。イエス・キリストを信じ、御言葉に従う生活こそが、最高の喜びをもたらすのです。
ソロモンは、人間の知恵や努力では神の御業を完全に理解することはできないと結論づけています。しかし、だからといって求めることをやめてはいけません。むしろ、御言葉に従い続け、聖霊の導きを求め続けることが大切です。
【結論】
この世では悪者が栄えているように見えても、最終的な裁きは必ず来ます。しかし、神は憐れみ深く、すべての人が悔い改めることを望んでおられます。私たちは地上の状況に惑わされず、イエス・キリストに目を向け、御言葉に従う生活を送りましょう。そうすることで、私たちの人生は清められ、神の栄光を現す器となるのです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
地を相続する事のしるし(創世記15:7-21):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:必ず成就する主の約束(ヨシュア記21:43-45):右クリックで保存
『このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。』(ヨシュア記21:43-45)
今回の箇所をもって、500年ほど前より主が約束しておられた事、彼らの先祖・アブラハム、イサク、ヤコブに対して「この地を与える」と約束されていた事が、成就した。
主は、個人や家族、その子孫に、あるいは、国や人類全体に与える約束があるが、聖書は、人類全体に与えられた”契約”であり、それも「旧契約聖書」と「新契約聖書」から成る。
そして、この聖書に記されている内容から、逃れる人は、誰もいない。
アブラハムやヨシュアのように、与えられた契約を信じて、そのとおり実行するなら、約束されている「良いこと」は必ずその人や家族、子孫、国に、必ず実現するが、主の約束を信じず、その言葉を軽んじるなら、聖書に記されている「呪い」が、その人や家族、子孫、国に、必ず実現する。
『天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。』(イザヤ55:9-11)
『主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。』(ヨシュア記21:44)
主は、土地を与えて下さったばかりでなく安息を、そして、敵を、彼らの手に渡して下さったと記されている。
しかし、イスラエル十二部族は、必ずしも、この領地内の全ての敵を打ち滅ぼした訳ではなかった。例えば、ヨセフ族は谷間に住むカナン人が鉄の戦車を持っている事を理由に攻め入っていないし、またベニヤミン族も、難攻不落に見えるエルサレムの要害を、手つかずのままにしてしまっている。
主は、鉄の戦車の装備を持つ敵も、難攻不落の要害も、全て彼らの手に渡している事には変わりはない。
つまり、真理の上では、主は既にそこの敵を彼らの手に渡しており、それを信じて攻め入るなら、信じた事が実体化して、彼らの手に実際に渡るのである。
ヨシュアも「カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」と言っている(ヨシュア記17:18)。
しかし彼らは、主の約束を信じるよりも、鉄の戦車の強そうな様や、要害の堅固そうな様のほうを信じてしまい、主に言われた事を実行しないまま、放置してしまっているのだ。
それが後になって、彼らの罠となってしまう。
『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-3)
安息に入れる者と、入れない者とが、厳然として”いる”事が記されている。
御言葉の約束が与えられていて、それを信じて進み行くなら、その信仰の実体を手に入れて安息するが、しかし、せっかく御言葉が与えられているのに、恐れて進み行かないなら、手に入れる事は出来ないまま滅んでしまう。
『そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、/「きょう、み声を聞いたなら、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」/とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。』(ヘブル4:6-8)
ヨシュアは、確かにイスラエルの民を約束の地・カナンに導き入れたが、そこは真の安息の地ではない。
私達にも用意されている真の安息があり、そこは、御言葉を自らの信仰へと混ぜ込み、自分のわざをやめる人のみが入れる領域である。
『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。』(ヘブル4:9-11)
礼拝説教メッセージ音声:レビ族が受けるべき土地の割り当て(ヨシュア記21:1-9):右クリックで保存
『時にレビの族長たちは、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュアおよびイスラエルの部族の族長たちのもとにきて、カナンの地のシロで彼らに言った、「主はかつて、われわれに住むべき町々を与えることと、それに属する放牧地を、家畜のために与えることを、モーセによって命じられました」。それでイスラエルの人々は、主の命にしたがって、自分たちの嗣業のうちから、次の町々と、その放牧地とを、レビびとに与えた。』(ヨシュア記21:1-3)
イスラエル十二部族への相続地の割り当てが終わり、のがれの町も制定された後、主の宮で奉仕する部族・レビ族が住むべき町や放牧地の配分が行われた。
この事は、かつて、主がモーセに命じた事だった。
『イスラエルの人々に命じて、その獲た嗣業のうちから、レビびとに住むべき町々を与えさせなさい。また、あなたがたは、その町々の周囲の放牧地をレビびとに与えなければならない。その町々は彼らの住む所、その放牧地は彼らの家畜と群れ、およびすべての獣のためである。・・・
あなたがたがレビびとに与える町々は六つで、のがれの町とし、人を殺した者がのがれる所としなければならない。なおこのほかに四十二の町を与えなければならない。すなわちあなたがたがレビびとに与える町は合わせて四十八で、これをその放牧地と共に与えなければならない。あなたがたがイスラエルの人々の所有のうちからレビびとに町々を与えるには、大きい部族からは多く取り、小さい部族からは少なく取り、おのおの受ける嗣業にしたがって、その町々をレビびとに与えなければならない。』(民数記35:2-8)
イスラエル人は、主に十分の一を捧げる事が命じられているが、神の働き人であるレビ人は、イスラエル人が捧げる捧げ物によって養われる特権も与えられている。
レビ人が住む場所も同様で、その場所は、それぞれの部族が提供しなくてはならず、大きい部族も、小さい部族も、必ず捧げるべき事を、主は命じており、それは、富める者も貧しき者も、必ず罪のためのいけにえを捧げなくてはならないのと、同じである。
また、前回学んだ「のがれの町」は、全てレビ族の町である。
誤って人を殺してしまった殺人者たちは、時が来るまで、主の働き人であるレビ人の町で住みこみ、レビ人と共に住み、食べ、生活するのだ。
私達も、誤って罪を犯している事が示されたなら、主の宮に駆け込み、主の働き人達と行動を共にして、霊的な養いを受けるべきである。
イスラエル十二部族の中からは、レビ族に町を提供しない部族は、一つも無かった。
という事は、レビ族は、イスラエル全領土へとまんべんなく散っている、という事である。
それは、主の働き人は、世界においても日本においても、まんべんなく散って、それぞれの場所で御言葉の務めをなし、主の奉仕に勤しむ事が望ましいのと同様である。
レビ人や祭司は、100%、一般の主の会衆が主に捧げる捧げ物によって生活が成り立っている。
だから、民が主に捧げる事、レビ人達を養う事がコンスタントに続けられているなら、レビ人や祭司たちは主の奉仕に専念でき、神と民との関係が健全に保たれる。
しかし、民が捧げる事を止めてしまうと、レビ人達は主の宮を手放して自分達の農地に逃げるしかなくなり、神の宮はおろそかにされ、民全体が祝福を受けられなくなってしまう。(ネヘミヤ記13:10)
それは、現代を生きる私達も同じである。
捧げる人には、幸いと祝福が増し加わり、捧げない人は、わずかな刈り取りしか出来ない事は、昔も今も変わりないのだ。