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礼拝説教メッセージ音声:数えてみよ、主の真実を(ヨシュア記23:12-16):右クリックで保存

主が共におられ、主ご自身が敵と戦って下さるならば、必ず勝利し、一人が千人を追い立てる事さえ可能である、と、ヨシュアは言った。

そしてその逆、もし、主が共におられないのなら、すなわち、人が主に忌み嫌われるような事をするなら、主は必ず災いを下す事も、宣言した。

味方であるはずの主は、一体どうしたら、敵対してしまうのか。ヨシュアは、以下のように言っている。
『あなたがたがもしひるがえって、これらの国民の、生き残って、あなたがたの中にとどまる者どもと親しくなり、これと婚姻し、ゆききするならば、あなたがたは、しかと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはや、これらの国民をあなたがたの前から、追い払うことをされないであろう。』(ヨシュア記23:12-13)
すなわち、交わってはならない邪悪な先住民と交わり、結婚し、滅ぼすべき者と混合してしまうなら、主はもはや共にはおられない。
今まで勝利をもたらして下さった主は、もはや、その人に勝利を与える事は無く、敵対してしまう。

ヨシュア記では、いまだ生き残っている滅ぼすべきカナン人を「あなたがたの中にとどまる者」と言っているが、現代を生きる私達の中にも、”滅ぼしてしまわなくてはならない者”が、私達の肉の中に、多少なりともうずめいている。
それは、旧来の不品行の性質や、罪深い性質など、神の民に相応しからぬ性質全般である。

私達は、主イエス様にあって救われた後、主と共に歩んで行く内に、どんどん開放され、自由となって行った領域がどんどん増え広がって行ったはずである。
イエス様と共に歩みつづけるキリスト者は、旧来の罪の性質はどんどん討ち滅ぼされていき、生来の生き方では、不可能と思えたような事が可能となり、今まで経験しなかったような事をどんどん経験し、心の中の自由な領域は、どんどん広がって行くものである。
まことのイエシュアであるイエス様と共に歩むなら、もっともっと、その領域は広がって行くが、滅ぼすべき旧来の性質を放置し続け、あるいは、それらと再び和合し、罪の性質と再び混合してしまうなら、どんどん心の束縛が増していき、ついには罪深い性質に飲み込まれてしまい、やがては滅ぼされてしまう。

『彼らは、かえって、あなたがたのわなとなり、網となり、あなたがたのわきに、むちとなり、あなたがたの目に、とげとなって、あなたがたはついに、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、滅びうせるであろう。』(ヨシュア記23:13)
ヨシュアの時代は、まだ、「彼らの中にとどまる者達」を攻め滅ぼす事を保留しているだけで、婚姻したり交わったりしてはいなかった。
それで、かろうじて信仰をもって戦い出るなら、必ず勝利していた。
しかし、いつまでも為すべき事を保留し続け、それを長くし、どんどん先延ばしにして行くならば、それらはやがて罠となってしまうのだ。

『見よ、今日、わたしは世の人のみな行く道を行こうとする。あなたがたがみな、心のうちにまた、肝に銘じて知っているように、あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束されたもろもろの良いことで、一つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで、一つも欠けたものはなかった。』(ヨシュア記23:14)
ヨシュアは、死を間近にして、大切な事を伝えた。
主は、約束された良い事の中で、何一つ成就しなかった事は無かった。
その事を、あなた方はしかと経験した、それをあなた方は、しっかりと覚えておきなさい、と。

『しかし、あなたがたの神、主があなたがたについて約束された、もろもろの良いことが、あなたがたに臨んだように、主はまた、もろもろの悪いことをあなたがたに下して、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、ついに、あなたがたを滅ぼし断たれるであろう。もし、あなたがたの神、主が命じられたその契約を犯し、行って他の神々に仕え、それを拝むならば、主はあなたがたにむかって怒りを発し、あなたがたは、主が賜わった良い地から、すみやかに滅びうせるであろう」。』(ヨシュア記23:15-16)
主は、約束しておられた良き事を、必ず成就させた。それと同じように、もし主をないがしろにするなら、災いもまた必ず成就してしまう、という事も覚えておきなさい、と、ヨシュアは注意した。
主が為して下さった良き事の数々を数えなさい、覚えておきなさい、というメッセージはよく語られるが、同時に、その逆が起きる事も、忘れてはならない。
すなわち、主をないがしろにした事によって、ひどい目や、災いに遭った事どもも、私達はよく覚えておくべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:現実を真実で飲み込め(ヨシュア記23:1-11):右クリックで保存 

主がイスラエル全部族に相続地を与えられてから、既に多くの日が経ち、ヨシュアも老人になった。
しかしヨシュアには、心配事が残っていた。
イスラエルの民には相続地が定められて久しいのだが、彼らは、その領地内に生き残っている先住民を滅ぼし尽くす事をせず、そのまま放置している所が、まだまだ多いからだ。
そこでヨシュアは長老や民の長達を呼び寄せて、言った。

『見よ、わたしはヨルダンから、日の入る方、大海までの、このもろもろの残っている国々と、すでにわたしが滅ぼし去ったすべての国々を、くじをもって、あなたがたに分け与え、あなたがたの各部族の嗣業とさせた。あなたがたの前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなたがたの神、主である。そしてあなたがたの神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの地を獲るであろう。』(ヨシュア記23:4-5)

ヨシュアは確かに、くじによって、この地を彼らに与えた事を神と人との前で宣言したが、現実的には、その中の一部では、相変わらず、住んでいてはならない先住民が住んでいる状態である。
「真実」の上では、その地は既に彼らの所有となっている。なのに「現実」では、そこには相変わらず、罪深く手強い者達が、占拠している。
このように、「真実」と、「現実」とが敵対している時、「真実」を信じて、「現実」に戦いを挑むなら、必ず真実が現実を飲み込む事になっている。
しかし、現実に飲み込まれて真実をいつまでも実行しないなら、それまた、その人の信じた通りになってしまう。

これは、現代を生きる私達にも、同じである。
主に言われた通りに信じて実践するならば、真理の面において既に得たものが、現実の面へと引き出されて行くのだ。
ちょうど、通帳に記されている残高の数字を信じて疑わず、銀行に行き、現金を下ろす手続きをして、ハンコを押す、という「信仰の行動」に出る事によって、現実のお金が手元に渡るのと同じである。
御言葉に記されている真実を信じ、そこに記されている通りに行動するなら、望んでいる事柄が実体となって、自分の手元に引き下ろされるのだ。(ヘブル11:1)

私達の人生も、ヨシュア記の当時と同じパラドックスに陥ってはいないだろうか。
御言葉の真理の上では、既にそこは自分の手に渡されている。
なのに、恐れや無気力などによって、信仰の行動をしておらず、そこに住み着いている邪悪な者達を、相変わらず、のさばらせたままにしてはいないだろうか。

主が共におられ、主と共に行動に出るなら、必ず勝ち取る事ができる。
ただし、主が味方して下さるためには、以下の事が必要である。
『それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。あなたがたのうちに残っている、これらの国民と交じってはならない。彼らの神々の名を唱えてはならない。それをさして誓ってはならない。またそれに仕え、それを拝んではならない。』(ヨシュア記23:6-7)

まずは、御言葉に堅く立って守り行い、そこから離れない事。
そして、神の国のものではない者達と交じり合わない事である。それは思想においても、価値観においても、そうである。
彼らの価値観や、彼らが「神」としているものを取り入れてしまうなら、主から敵対されてしまうからだ。
そして、何よりもまず、主を第一として愛する事である。
『ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主につき従わなければならない。・・・それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない。』(ヨシュア記23:8-11)
これらは、十戒の第一戎と第二戎とにも通じる、霊的な最優先事項である。

『主が大いなる強き国民を、あなたがたの前から追い払われた。あなたがたには今日まで、立ち向かうことのできる者は、ひとりもなかった。あなたがたのひとりは、千人を追い払うことができるであろう。あなたがたの神、主が約束されたように、みずからあなたがたのために戦われるからである。』(ヨシュア記23:9)
今までのヨシュア記での戦闘では、信仰における失敗をした場合を除き、彼らの前に立ち向かった敵は一人もなく、ことごとく勝利して来た。
そればかりでなく、一人の人が千人を追い払うことが出来る、というのだ。
信仰の少数精鋭は、不信仰な大人数にはるかに勝るのだ。(レビ記26:8、士師記3:31, 7:19-22、15:15、1サムエル14章、2サムエル23:8)

私達の人生は、勝ち取っていない領域が沢山あり、生涯をかけて、それらを勝ち取って行くようなものである。
勝利の上で大事な事は、主が共におられるという事であり、主が共におられる状態でいるには、心を尽くして主を愛し、主にの御言葉を守り行う事である。

アブラム、そしてアブラハムへ(創世記17章)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

前回、アブラムとサライは、世の手段や肉のやりくりによって主の約束の未成就分を果たそうとする過ちを犯し、そうしてイシュマエルが生まれてからの13年は、聖書は何の記録も無く、霊的空白の年月が流れた。
人が肉の力で何かしようとするなら、人の肉が力尽きるまで、神は沈黙されるのだ。
肉のやりくりによって、何かを為し続ける限り、主からの語りかけも霊的前進も無く、ただ、気力・体力の隆盛と衰退の繰り返しの、無味な時間が過ぎていく。その間、一見無駄とも思える事の繰り返しの時期に見えるが、永遠の観点から見れば、「肉に対して絶望する」という大きな意味のある時期である。
イスラエル民族にも荒野の四十年を通らせたように、神は度々、人の肉の力を一切削ぎ落とすため、膨大な時間を用いられるが、アブラムも、子を産むという事に対しては、全く絶望的になった九十九歳になったその時、神は、エルシャダイ、すなわち「全能の神」として現れた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み(ハーラフ)」、全き者であれ。」(創世記17:1)
以前学んだように、ここの「歩みなさい(ハーラフ)」の要求は、ヘブル語の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われており、すなわち、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に「歩みなさい」、と命じられている。
いよいよアブラムの肉は力尽き、生殖機能はもう死んだも同然の99歳の時、主が特に強調して命じられた事が、(自主的に)主の前に歩む事、全き者となる事であった。私達も、自ら主体的に、自覚的に、自発的に主と共に歩もうとする時、主の御前に「全き者」となり、全く新しい人生、新しい名が与えられる。
「あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。」(5節)
アブラム(אַבְרָם)の名に、ハーラフの「ハ(הָ)」が付与され、アブラハム(אַבְרָהָם )となり、サライ(שָׂרַי)も、語尾が「ハ(ה)」に変換され、サラ(שָׂרָה)となった。私達も、自分の名に、すなわち自分のアイデンティティに、「主と共に歩む事(ハーラフ)」を加えるなら、全く新しく、まったき者へと、造り変えられるのである。

そして主は、人の側が守るべき「契約のしるし」をも与えられた。それは、割礼である。(9-14節)
契約を取り交わす際、契約書にサインを記して、初めて契約は有効化されるが、このサインに相当するものが割礼であり、「割礼を受けない者は民から断たれる」と言われた程、神の民には必須のものである。
割礼は、男性器の包皮を切り取る行為である。男は支配し治める者であるが、その男性のシンボルたる部位の「肉を切り捨てる」事が、神の民のしるしとされるのは、実に象徴的だ。
キリストにあってアブラハムの子孫とされたからには、男も女も、どの国民も、「割礼」は避けて通れない。
もっとも、私達が受けるべき割礼は、御言葉の剣による心の割礼で(ローマ2:28)、十字架によって自分の肉を殺す事であり、神から独立して歩む”男の性質”はそぎ落とし、神と共にハーラフする者となる事だ。
その先には、主と共に歩む事の祝福が待っている。肉において私達を責め立てていた債務証書は全て無効化され、真にアブラハムの子孫としての祝福にあずかるようになる。もし、相変わらず世に属しているなら、相変わらず、不利な債務証書を世からつきつけられ、世の手順に従って歩まなければならない。

主はサライにもサラという新しい名を与え、彼女は国々の母、もろもろの民の王の母となると約束されたが、アブラハムにとって、この約束は、思わず笑ってしまう程、突拍子も無い内容だった。(17節)
彼は、イシュマエルが長らえるようにと言ったが、主は明確に言われ、イシュマエルの事かと思った。
「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。」
アブラハムは最初、笑った。神様、もうそこまでしなくていい、という、無気力の笑いである。しかし神は、有り得なさ過ぎて笑ってしまう程の事であろうとも、成してしまう程、エルシャダイ(全能なるお方)であり、たとい人がどんなに御胸を破壊する行動をしても、それを上回る真実で、人の不真実を上塗りして下さるのだ。
最初は聞いて信じきれず笑ってしまったアブラハムだが、彼は信じた。その証拠に、早速割礼を実行した。
それも自分自身だけでなく、息子のイシュマエルをはじめ、家の奴隷や僕など、少なくとも300人以上の男性に対し、その日の内に、割礼を受けさせたのだ。かなりの度胸のいる事を、その日の内に実行したのだ。
こうして、割礼によって肉をそぎ落としたアブラハムには、全能なる主の御力が働く土壌が整えられた。
同様に私達も、神から離れて何事かをなそうとする自分の「肉」を十字架につけ、神と共に歩む備えをするなら、無気力に笑うしか無かった私達の人生にも、全能なる主の力が働く土壌が整えられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
恵みの深みへ飛び込め(ルツ記2章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
わたしをきよめ道を示して下さい(金曜昼祈祷会):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
無に帰してしまった被造物の回復(ローマ8:18-25):右クリックで保存

野外礼拝(詩篇8)

カテゴリ : 
その他音声
執筆 : 
pastor 2014-8-23 15:24

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
野外礼拝(詩篇8):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
生きている間に喜んで楽しめという考え方(伝道者の書9:1-8):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書9章1節から8節を通して、人生の結末とキリストにある希望について説教します。

【聖書箇所】

伝道者の書9章1-8節

【慰めの言葉】

「すべて生きているものに連なっているものには希望がある。生きている犬は死んだ獅子に勝るからである。」

【励ましの言葉】

「キリストにある私たちは、永遠に受ける分があるこの恵みと望みを感謝いたします。」

【戒めの言葉】

「どうせ明日は死ぬのだからと言っている。そこで万軍の主は私の耳を開かれた。この罪はお前たちが死ぬまで決して許されない。」

【勧めの言葉】

「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」

【悔い改めの促しの言葉】

「この地上の歩みは、永遠を決定づけるための査定期間と言っていいでしょう。」

【***詳細***】

今日の御言葉は、伝道者の書9章1節から8節です。この箇所では、人生の結末がすべての人に同じように訪れることが述べられています。正しい人も悪者も、善人も清い人も、すべての人に同じ結末が訪れます。しかし、キリストにある私たちは、永遠に受ける分があることを感謝します。黙示録20章11節からの白い御座の裁きにおいて、私たちはキリストにあって成したことの報いを受けます。

生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられます。しかし、キリストにある者は、永遠に受ける部分があり、信仰の試練は火を通して精錬されてもなお朽ちてゆく金よりも貴いのです。

イエス・キリストを信じる者は、命の書に名が記されており、第二の死は何の害もありません。私たちはこの地上で、キリストにあって白い衣を着て、精霊の油を絶やさずに歩むべきです。黙示録の1章17節でイエス様は言われました。「私は生きているものである。私は死んだがみよ、いつまでも生きている。」

伝道者の書の言葉は、キリストなしに生きている人たちに非常によく当てはまりますが、キリストにあって生きる人は、永遠の希望を持っています。私たちは、キリストという生きるお方につながっていることで、希望があります。生きている犬は死んだ獅子に勝るという言葉は、キリストにつながる私たちに当てはまります。

【結論】

キリストにある私たちは、永遠の希望を持ち、地上での歩みを通してその希望を確かなものとすることができます。私たちは、キリストにあって白い衣を着て、精霊の油を絶やさずに歩み、永遠の報いを受けることを目指しましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
奴隷女と自由の女(ガラテヤ4:21-31):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:誤解を与えてしまった時には(ヨシュア記22:21-34):右クリックで保存

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、自分達が祭壇を築いた事が「主への反逆である」という誤解を、他の部族に与えてしまった事を知って、答えた。
『力ある者、神、主(エホバ)。力ある者、神、主(エホバ)。主は知ろしめす。イスラエルもまた知らなければならない。もしそれがそむくことであり、あるいは主(エホバ)に罪を犯すことであるならば、きょう、われわれをゆるさないでください。われわれが祭壇を築いたことが、もし主に従うことをやめるためであり、またその上に、燔祭、素祭をささげるためであり、あるいはまたその上に、酬恩祭の犠牲をささげるためであったならば、主みずから、その罪 を問いただしてください。』(ヨシュア記22:21-23)

彼らが真っ先にした事は、エホバなる主を、自分と相手との間に据えた事だった。
私達も、兄弟姉妹に誤解させてしまった時、ことに、誤解によって相手の感情を害させてしまったり、不愉快な思いをさせてしまったりした時には、先ず先に、主を彼我の間に据える事が、最優先させるべき事である。
そうする事で、相手が自分を誤解している事について、自分が動揺したり怒ったりする事を防げるし、また、相手が主を恐れる兄弟姉妹であるなら、ある程、全てをご存知であられる主にさばきを委ねる事は、正当な事だと、双方が確認できるからである。

主は、その人の真実も不信実もご存知であり、真実に対しては豊かに報い、不信実に対しても、正当にさばいて下さる。
ダビデも、自分が不当に責め立てられている時、全てのさばきを主に委ねた。
『わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。』(詩篇7:3-5)

続いて彼らは、問題となっているこの祭壇をなぜ造ったのか、その理由を説明した。
すなわち、後の時代になった時、彼らの領土がヨルダン川の向こう側にある、という事で、ヨルダン川のこちら側に相続地を得ている人達に「主を礼拝する分はあなた方には無い」と言われてしまう事を心配したために、この祭壇を「しるし」として造り、自分達にも主を礼拝する分があるのだ、という事を、後の時代になっても思い起こさせるためだ、というわけである。

『のちの日に、われわれ、またわれわれの子孫が、もしそのようなことを言われるならば、その時、われわれは言おう、「われわれの先祖が造った主の祭壇の型をごらんなさい。これは燔祭のためではなく、また犠牲のためでもなく、あなたがたと、われわれとの間の証拠である」。主にそむき、ひるがえって今日、主に従うことをやめて、われわれの神、主の幕屋の前にある祭壇のほかに、燔祭、素祭、または犠牲をささげるための祭壇を築くようなことは、決していたしません。」』(ヨシュア記22:28-29)
この事を聞いた祭司ピネハスや、他の部族の長達は、彼らの言葉を良しとした。

『祭司エレアザルの子ピネハスは、ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの子孫に言った、「今日、われわれは、主がわれわれのうちにいますことを知った。あなたがたが、主にむかって、このとがを犯さなかったからである。あなたがたは今、イスラエルの人々を、主の手から救い出したのです」。』(ヨシュア記22:31)
この度、誤解を与えてしまった側も、誤解してしまった側も、全員、主が自分達と共におられるという事を知った。
主は、敵に勝利させて下さる神であるだけではなく、兄弟姉妹の間に平和を与えて下さる神でもあるのだ。

『イスラエルの人々はそれを良しとした。そしてイスラエルの人々は神をほめたたえ、ルベンの子孫、およびガドの子孫の住んでいる国を滅ぼすために攻め上ろうとは、もはや言わなかった。ルベンの子孫とガドの子孫は、その祭壇を「あかし」と名づけて言った、「これは、われわれの間にあって、主が神にいますというあかしをするものである」。』(ヨシュア記22:33-34)

私達も誤解してしまう時、あるいは、誤解を与えてしまう時、主をその間に立て、主に正しく裁いていただき、平和を保つ者でありたい。

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