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礼拝説教メッセージ音声:イエス様という「のがれの町」(ヨシュア記20:1-9):右クリックで保存
前章で既にイスラエル十二部族への相続地の配分は全て終わったが、まだ補足的な事で、為すべき事が残っている。
『主はヨシュアに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『先にわたしがモーセによって言っておいた、のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。これはあなたがたが、あだを討つ者をさけて、のがれる場所となるでしょう。』(ヨシュア記20:1-3)
モーセが生きていた時に、主が何度か命じておられた「のがれの町」を、実際に制定しなさい、と、主は言われた。
「のがれの町」とは、誤って人を殺してしまった殺人者が、復讐者の手から守られるための町である。
人殺しが起きた場合は、被害者の近親者がその殺人者を殺しても良い事になっていたが(民数記35:19-21)、故意にではなく人を殺めてしまう場合もある。
例えば、敵意や悪意もなく人を突いてしまったり、気がつかないで人を死なせるほどの石を人の上に落としてしまったり(民数記35:22-23)、あるいは、木を切るために斧を振り上げたところ、その頭が抜け、それが隣人に当たってその人が死んでしまう場合(申命記19:5)、など。
そういった場合の救済措置として、その人は「のがれの町」に逃れる事が出来るよう、主が定められたのだ。
『その人は、これらの町の一つにのがれて行って、町の門の入口に立ち、その町の長老たちに、そのわけを述べなければならない。そうすれば、彼らはその人を町に受け入れて、場所を与え、共に住ませるであろう。たとい、あだを討つ者が追ってきても、人を殺したその者を、その手に渡してはならない。彼はあやまって隣人を殺したのであって、もとからそれを憎んでいたのではないからである。』(ヨシュア記20:4-5)
この町にのがれる事が出来るのは、誤って人を殺した場合のみである。わざと殺したのであるなら、その町で保護はできない。
だから、この町に逃れてくる人は、まずその町の長老達にそのわけを述べ、正当に保護されるべきかの判断を受けなくてはならず、よしと認められるなら、その町に保護され、住む事が出来る。
『しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合、血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。』(民数記35:26-27)
『その人は、会衆の前に立って、さばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。そして後、彼は自分の町、自分の家に帰って行って、逃げ出してきたその町に住むことができる』」。』(ヨシュア記20:6)
その人は、その時の大祭司が死ぬ時まで、そこにいなくてはならないが、大祭司が死んだ後は、罪を咎められない者として自由の身となり、自分の町に帰れる。
のがれの町は既にヨルダン川の東側に3つ制定されていたが、今回、ヨルダン川西側にガリラヤのケデシ、エフライムの山地にあるシケム、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバすなわちヘブロンが、のがれの町として選び分かたれた。
これらの町々は、イスラエル全領土のどこからも、その内のどれか一つに行きやすい距離として制定されている。
また、この権利は、イスラエル人のみならず、寄留する外国人にもあずかる事ができる。(ヨシュア記20:9)
この権利は、意図せずして人を殺めてしまった人への保護措置であるが、私達は、世の中を生きていく上で、色々な場面において、意図せず人を傷つけたり、あるいは心の中で殺人を犯したり、心の中で姦淫を犯したり、罪を犯してしまうものである。
なぜなら、人は生まれながらにして、その肢体の内には、罪のとげが刺さっているからだ。
しかし、主イエス様は、そんな私達が「のがれの町」に逃げこんで保護を受けられるように、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と叫んで、父なる神様に執り成して下さった。(ルカ23:34)
人は元々、何をしているのか、自分で分からないものだ。
造り主である主に対して、どんなに無礼を働いて来たか、どんなに殺人に等しい罪々を、主に対して犯して来たか。
それをイエス様は、御父に執り成して下さったために、私達はイエス様を信じる信仰によって、罪の裁きからのがれる権利が与えられたのだ。
大祭司が死ぬ時、のがれの町にかくまわれていた人は、罪の責めを負う事の無い自由の身となるが、イエス様はまことの大祭司として、死んで下さった。
だから、イエス様を信じる人、イエス様の十字架の元に隠れ処を求めて来ている人は、誰でも、御前で犯して来た罪については無罪放免、自由の身とされたのだ。
この「のがれの町」にあずかる権利は、イスラエル人のみならず、寄留する外国人にもあずかる事ができるものであったように、イエス様という「のがれの町」には、どの国の人であってもその権利にあずかる事が出来るのだ。
しかし、のがれの町から一歩出てしまうなら、復讐者が追いついてしまうならどうしようもないように、イエス様という救いの囲いからは出てしまうなら、滅びが追いついてしまっても、どうにもならない。
また、ひと度十字架の血潮によって清められ、イエス様というのがれの町でかくまわれたのに、それを軽んじ、汚れたものとするなら、もはや救いの道は残されていない。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)
終わりの日まで、しっかりイエス様という「のがれの町」の中に留まり、あらゆる面から守られ、安全に匿われ、罪と死からは自由の身となり、サタンは一切手出し出来ない者として保たれる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
アブラムの子孫 - 地の砂から天の星々へ(創世記15:1-6)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ソドム地方に攻め入ってきた4人の強力な王達を信仰によって撃退し、甥のロトを救い出したアブラムは、ソドムの王からの褒美は一切辞退し、永遠の祭司メルキゼデクからパンとぶどう酒をもって祝福を受けた。
そんなアブラムに再び主が現れ、祝福の約束はさらに具体化しバージョンアップする。「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう。」(創世記15:1)
主はまず、恐れるな、と言われた。そして、ご自身を「盾」であると。盾は敵の攻撃を防ぐものであり、アブラムを4人の王から守り、勝利させて下さった主は、主の民を攻撃するあらゆるものから、彼らを守って下さる。
続く日本語聖書の言葉は「あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」であるが、原文のニュアンスは違う。
KJVでは「I (am) thy shield, (and) thy exceeding great reward. 」、つまり神は、「わたしがあなたの盾、そしてあはたへの飛び抜けて素晴らしい報酬だ。」と言っておられるのだ。
主を信じたなら、その報いとして、莫大な富や栄誉を得られる、などとというレベルの話ではない。
”主ご自身が莫大な報い”であり、それは、世のいかなる栄光や富よりも、はるかに勝る報酬なのである。
エジプトのパロや4人の王の生殺与奪の権を持ち、アブラムに多くを与えるも与えないも、全てを自在に支配しておられる主、天地を創られた主、そのお方が、私達・キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける”相続”でもある。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)それは何と素晴らしい事であろうか!
アブラムは主に答えた。自分にはまだ子供がいない、たとえ自分に多くのものが与えられても、このままでは全部、家で生まれた僕のものになるだけだ、と。主はそれに対し、「あなたの身から出る者が」あなたの跡を継がなければならない、と、明確に言われた。あなたにはこれから必ず、子が与えられる、と。
『そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。 』(創世記15:5)
アブラムは、闇に塗られた夜空に、数え切れないほどの星々が、ちりばめられた宝のように輝いているのを、仰ぎ見た。暗闇の空に輝く星々。大きな星もあれば小さな星もあり、色とりどりの星が無数にきらめいている。
自分に与えられる子は、このようである! アブラムは、主の言葉を信じた。信じて、喜び踊った事だろう。
もう死んだも同然のような自分に、これから子が与えられ、その子孫は夜空の星々のようになる。それを信じて喜び踊る。それは信仰無き者には理解出来ない喜びである。そして主は、これを彼の義と認められた。
主の言葉を信じる事。それこそ、不義なる人が、義とされる、唯一の手段である。私達もイエスを死人の中からよみがえらせて下さったお方を信じる信仰によって、義とされるのだ。(ローマ4:16-25)
さて、アブラムは以前、最後の血縁であるロトと別れた直後にも、子孫が「地のちりのように」多く与えられると約束が与えられたが、それが今回、「空の星のように」へとバージョンアップしている。
自分の生来の生き方、地に属する生き方を離れるなら、その人もその子孫も、確かに地において栄え、増えて行く。しかし、主の約束を信じ、さらに進み出て勝利する人、ソドムのような汚れた富は一切断る人には、まことの大祭司メルキゼデクからのパンとぶどう酒が待っており、その子孫は、地において栄えるばかりか、より優れた「天に属する子孫」となり、その子孫は、漆黒に塗られた暗闇の時代においても、光となって輝き渡るのだ。そしてまた、アブラムに約束された「子孫」には、さらなる意味がある。
アブラムに与えられると約束された”子孫”は単数形であり、この「単数形の子孫」は、キリストの事である。(ガラテヤ3:16) エバも、ノアも、そしてアブラムも、ダビデも、神が約束されたこの「単数形の子孫」、すなわち、蛇の頭を砕くキリストを望み、信じ、希望を託したのだ。(創世記3:15、9:9、15:5、2サムエル12:2)
旧約の偉人達は、その「子孫」をまだ見ていなくても、はるか未来に仰ぎ見、信じて義と認められ、また私達も同様に、キリストを見ていなくても信じており、栄えに満ちた喜びに満ち満ちている。(1ペテロ1:8)
現代を生きる私達も、この単数形の子孫であるキリストを宿し、この暗闇の世代の中において、キリストのいのちを灯す世の光として輝いている。アブラムが空を見上げた時、その星の中に、現代を生きる私達も見えたのではないだろうか。この闇の時代にあって、光の子としてますます輝き、光の子孫をさらに生んで増やして行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
水の上を歩く(マタイ14:22-36):右クリックで保存
疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい(マタイ11:25-30)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-8-9 1:33
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
疲れた人、重荷を負っている人はわたしの所に来なさい(マタイ11:25-30):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
知恵は顔を輝かせる(伝道者の書8:1-8):右クリックで保存
【概要】
知恵の大切さと、神の命令に従うことの重要性について語られたメッセージ。
【聖書箇所】
伝道者の書8:1-8
イザヤ書28:14-19
【勧めの言葉】
神の知恵を求め、それに従って生きることで、人生と永遠をうまく渡り合えます。
【戒めの言葉】
死や悪と同盟を結ぶのではなく、イエス・キリストという礎石に寄り頼むべきです。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉は伝道者の書8章1節から8節までです。
「誰が知恵ある者にふさわしいだろう。誰が事物の意義を知り得よう。人の知恵はその人の顔を輝かし、その顔の硬さを和らげる。」(伝道者の書8:1)
知恵を身につけること、それこそが、この人生を、また永遠をうまく渡り合っていくためのコツです。知恵を得ることは、まず、主を恐れること、主の命令を守り行うことから始まります。そうする者には何も恐れることも、また慌てることもありません。
「人は言う。王の命令を守れ。神の制約があるから、王の前から慌てて退出するな。悪事に加担するな。王は自分の望むまま何でもするから。王の言葉には権威がある。誰が彼に『あなたは何をするのですか』と言えようか。」(伝道者の書8:2-4)
ここでソロモンは王について語っていますが、私たちが王と仰ぐべきはイエス様です。イエス・キリストこそ私たちの王です。ですから、ここをキリストに読み替えて読むならば、本当にふさわしい言葉が私たちに与えられます。
「命令を守る者は災いを知らない。知恵ある者の心は時と裁きを知っている。」(伝道者の書8:5)
王なる主イエス様の命令、すなわち御言葉を守る人は災いを知りません。そして知恵が増し加わります。御言葉に親しむうちに知恵が増し加わっていき、知恵ある人の心は時と裁きを知るようになります。
「すべての営みには時と裁きがある。人に降りかかる災いが多いからだ。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを誰も告げることはできない。」(伝道者の書8:6-7)
確かに何が起こるか、いつ起こるか、それはわかりません。しかし、知恵ある人は、いつ何が起きても怖くありません。なぜなら知恵に従って行動しているから、災いをもたらすような行動を初めから避けているからです。
「風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救い得ない。」(伝道者の書8:8)
人間はいつも毎日が死と対抗する戦いを戦っています。日々食べたり飲んだり働いたりすること、それは死なないためです。しかし、この戦いから免れる人は誰もいません。やがて人は死にます。
ここで、イザヤ書28章14-19節を見てみましょう。
「それゆえ、あざける者たち、エルサレムにいて、この民を物笑いの種にする者たちよ。主の言葉を聞け。あなたがたはこう言ったからだ。『私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとえにわか水が溢れ押し寄せて来ても、それは私たちには届かない。私たちはまやかしを避けどころとし、偽りに身を隠してきたのだから。』」(イザヤ書28:14-15)
これらの人々は、まやかしを避けどころとし、偽りに身を隠しています。彼らは死と同盟を結び、よみと契約を結んでいると言います。しかし、主はこう言われます。
「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の貴い隅石。信じる者は、慌てることがない。」(イザヤ書28:16)
主は、シオンに一つの礎石を据えられました。イエス・キリストという礎石です。この礎石により頼む人、これを信じる人は慌てることがありません。
「あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水が押し寄せて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。」(イザヤ書28:18)
まやかしを避けどころとしている者は、にわか水が溢れて押し寄せてくると、それによって踏みにじられます。偽りやまやかしに身を隠してきた者は、やがてにわか水が溢れ、それに押し寄せられ、踏みにじられるのです。
【結論】
私たちは死やよみ、まやかしといったものと同盟を結ぶのではなく、イエス・キリストという礎石に寄り頼むべきです。知恵あるものとなり、知恵にふさわしく歩むならば、私たちの顔は輝き、表情は柔らかくなります。どんな状況にあっても、イエス・キリストという知恵に満たされ、御言葉という知恵によって養われ輝かされる者となりましょう。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
メルキゼデクとは(詩篇110編):右クリックで保存
アシェル、ナフタリ、ダン、そしてヨシュアに割り当てられた相続地(ヨシュア記19:24-51)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-8-8 19:42
礼拝説教メッセージ音声:アシェル、ナフタリ、ダン、そしてヨシュアに割り当てられた相続地(ヨシュア記19:24-51):右クリックで保存
五番目に相続地を”くじ”によって受けたのは、アシェル族であった。
『第五に、アセルの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。・・・それから、その境はラマに曲り、堅固な町ツロに至る。』(ヨシュア記19:24-29)
このアシェル族について、ヤコブは次のように預言している。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
彼らの食物は豊かで、王の美味を生み出す、これはどういう事だろう。
彼らの相続地の中には、海沿いに堅固な町”ツロ”があり(29節)、この町は、海洋貿易によって多くの富がもたらされる所で、「食物は豊かで、王の美味を生み出す」にふさわしい所であった。
しかし、ダビデの時代には、その地はフェニキヤ人の国となってしまっている。ダビデはこのツロの王ヒラムと同盟を結び、ソロモンの時代には、神殿建設のために必要な材木を取り寄せるよう要請した。(1列王記5章)
アシェル族は、ツロを一旦占領したのに奪還されてしまったのか、あるいは、最初から占領できていなかったのか、とにかく、ツロは本来アシェルが占領して、彼らが神の神殿のために必要な資材を提供すべき地であったはずのに、その役回りを、異邦の王ヒラムに取って代わられてしまったようである。
せっかく良き地が与えられたのに、除き去るべき敵を徹底して除き去らずに、かえってその場所が奪われてしまい、栄誉ある仕事の役回りも、他に奪われてしまって残念である。
『第六に、ナフタリの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた。』(ヨシュア記19:32)
ヤコブはナフタリについて、次のように預言している。『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
この「子じか」には、「歌」や「ことば」の意味もあり、「彼は美しい歌(ことば)を生む」とも訳せる。
ナフタリの地、それは、イエス様が住まわれた所であり、宣教を開始した所でもある。(マタイ4:12-17)
ヤコブはナフタリを、美しい歌、美しい言葉を生み出す地として祝福し、モーセも、恵みと祝福に満ちた地として祝福した。
それは彼らは、メシヤのおとずれを、ナフタリに見ていたからなのかもしれない。
『第七に、ダンの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。その嗣業の領域には、ゾラ、エシタオル、イルシメシ、・・・メヤルコン、ラッコン、およびヨッパと相対する地域があった。』(ヨシュア記19:40-46)
ダン族の相続地は、エフライムとユダの相続地の間、海沿いに得たが、聖書地図をよく見てみると、ダンの相続地は、海沿いのその場所と、北側とに2箇所ある事に気づく。
彼らは、くじで割り当てを受けた部族にしては珍しく、北方へと攻め入って、領地を獲得したからだ。
『ダンの子孫の領域は、彼らのために小さかったので、ダンの子孫は、上って行き、レセムを攻めてそれを取り、つるぎにかけて撃ち滅ぼし、それを獲てそこに住み、先祖ダンの名にしたがって、レセムをダンと名づけた。これがダンの子孫の部族の、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と、それに属する村々とである。』(ヨシュア記19:47-48)
士師記をみると、ダン族は、さらに積極的に他に攻め行っていっているが、後には、ならず者が暴力に任せて他を奪うような、邪悪な性質となってしまった。(士師記18章)
ヤコブが預言した通りである。
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(創世記49:16-17)
『こうして国の各地域を嗣業として分け与えることを終ったとき、イスラエルの人々は、自分たちのうちに、一つの嗣業を、ヌンの子ヨシュアに与えた。すなわち、主の命に従って、彼が求めた町を与えたが、それはエフライムの山地にあるテムナテ・セラであって、彼はその町を建てなおして、そこに住んだ。』(ヨシュア記19:49-50)
全イスラエルへの相続地の割り当ては、こうして終了した。
しかしその最後に、ヨシュアへの相続が与えられている。
テムナテ・セラの名前の意味は、有り余るほどの部分、という意味である。主ご自身が、彼に報いて、有り余る程に与えて下さったのだ。
ヨシュアが求めたのは「山地」であるが、信仰の偉人たちは、どうやら山地が好きなようだ。
カレブも「あの山地を下さい」と願ってヘブロンを得たし、そのヘブロンは、アブラハムが甥のロトと分かれた後に定住した地である。
ロトはアブラハムと別れた後、低地の潤った所、ソドムという不品行で栄えた都へと住居を移してしまい、そのうち、アブラハムと共に歩んだ時に得た財は全て失って、後には身一つで命からがら山地へと逃げる事になってしまった。
私達も、この終わりの時代には、ソドムのような邪悪さによって潤った低地に住むのではなく、むしろ、信仰者が住む山地に住居を構えるものでありたい。
シメオン、ゼブルン、イッサカル族に割り当てられた相続地(ヨシュア記19:1-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-8-8 2:55
礼拝説教メッセージ音声:シメオン、ゼブルン、イッサカル族に割り当てられた相続地(ヨシュア記19:1-23):右クリックで保存
相続地を二番目に”くじ”によって受けたのは、シメオン族であった。
『シメオンの子孫の嗣業は、ユダの子孫の領域のうちにあった。これはユダの子孫の分が大きかったので、シメオンの子孫が、その嗣業を彼らの嗣業の中に獲たからである。』(ヨシュア記19:9)
彼らはユダ族の領地のまっただ中に相続地を受けており、聖書地図を見ると、ユダ族の領地の中に、あたかもドーナツの”輪”の部分のような形で立地している。
これは、イスラエル十二部族の父・ヤコブが、次のように預言した通りである。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)
シメオンとレビは、シェケムの男に妹ディナが汚された事の復讐のために”割礼”という主の聖なる契約を利用して、シェケムの男たちを欺き、彼らが割礼を受けて弱っている時に、男達を皆殺しにし、女子供や家畜を分捕るという蛮行を行った。(創世記34章)
それ故ヤコブは、彼らのその激しい怒りを呪い、その言葉の通りにシメオン族はユダ族の中へと”散らされる”形となってしまった。
シメオン族の次に割り当てを受けたのは、ゼブルン族であった。
『第三にゼブルンの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた。その嗣業の領域はサリデに及び・・・、そしてカッタテ、ナハラル、シムロン、イダラ、ベツレヘムなど十二の町々と、それに属する村々があった。これがゼブルンの子孫の、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と、それに属する村々とである。』(ヨシュア記19:10-16)
ヤコブの彼らに対する預言を見ると、「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13) となっているが、しかし彼らが実際に得た領地は、海沿いではないし、また、シドンからもかけ離れている。
そして、未だにゼブルン族が海沿いの地を勝ち取ったという歴史は、存在しない。
このような、預言の”未成就”は、どうして起こるのか。
それは、預言を受けた本人が、主から与えられた「こうすれば、こうなる」という条件を無視し続けたり、あるいは、祝福に見合わない行動をし続けたりする時、そのようになってしまう。
例えば、主はヤロブアムに対して、ダビデのように長く続く堅固な王家を建てる約束を与えられたが、それは実現せず、結局、彼の二代目の時に、一族郎党皆殺しにされてしまった。
なぜなら、彼はせっかく主から祝福の約束が与えられたというのに、それに見合わない事を行い続け、主を怒らせ続けたからだ。
彼は、金の子牛像を礼拝対象にさせたり、勝手に考案した月日を礼拝の日として定たりと、主の忌み嫌われる事をし続けて止めず、預言者からしるしを伴う警告が与えられても、なお悔い改める事をしなかったのだ。
主は元々、アブラハムに、エジプトからユーフラテス川に至るまでの広大な地を与えると約束されたが、実際のイスラエルは、それら全てを勝ち取っていく行動を、しなかった。
ゼブルン族も、海沿いの地、シドンを攻めて行く事を、ついぞしなかったため、結局、彼らにはヤコブの祝福は実現しなかったのだ。
『第四にイッサカル、すなわちイッサカルの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた・・・。その境はタボル、シャハヂマ、ベテシメシに達し、その境はヨルダンに至って尽きる。十六の町々と、それに属する村々があった。』(ヨシュア記19:17-22)
イッサカルは、ヤコブから以下の預言をもらっている。
『イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。』(創世記49:14)
彼はその預言の通り、マナセ族の二つの領地という”羊のおり”の、ちょうど間に相続地を得ている。
イッサカルは五男であるのに、そのはるか下の弟、十一男であるヨセフの子・マナセの相続地の間に住まわせてもらっている形となっている。
また、シメオンは次男であるのに、これまた四男の弟であるユダが勝ち得た多くの中から、余り物をもらった形となった。
ゼブルン族も、本来的には海沿いの領地を勝ち得るはずが、それをせずじまいになってしまった。
現代を生きるキリスト者も、何もせずに、ただ手をこまねいているような人は、かろうじて、他の積極的な聖徒の傘下で養われるしかない。
与えられている賜物、与えられている力は積極的に活用し、地上において多くのタラントを稼ぎ、永遠の天においては、さらに多くを任される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ベニヤミン族に割り当てられた領地(ヨシュア記18:11-28):右クリックで保存
ヨシュア記18章の後半以降、残り7部族への相続地の割り当てが記されている。
その中で、真っ先にくじが割り当てられたのは、ベニヤミン族であった。
『まずベニヤミンの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。そしてそのくじによって獲た領地は、ユダの子孫と、ヨセフの子孫との間にあった。』(ヨシュア記18:11)
モーセは死ぬ時、ベニヤミン族を次のように祝福している。
「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り、/その肩の間にすまいを営まれるであろう」(申命記33:12)
モーセが「その肩の間にすまいを営まれる」と預言した通り、彼らはユダ族とヨセフ族という”両肩”の間に相続地を得た。
彼らへの相続地は、あまり広い地域ではないが、後のイスラエルにとっての要所がいくつかある。
『またギベオン、ラマ、ベエロテ、ミヅパ、ケピラ、モザ、レケム、イルピエル、タララ、ゼラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギベア、キリアテ・ヤリム。すなわち十四の町々と、それに属する村々。これがベニヤミンの子孫の、その家族にしたがって獲た嗣業である。』(ヨシュア記18:25)
ギベオンやラマは、ベニヤミンの母・ラケルが死んだ所とされ、その付近に彼女の墓があったと考えられており、エレミヤは、その地方が後にバビロンによって滅ばされる事を「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。」(エレミヤ31:15)と預言している。
ラケルは、ベニヤミンを産む時、とても難産で苦しんだため、その子を「ベン・オニ(私の苦しみの子)」と名づけたが、父ヤコブは「ベニヤミン(右手の子)」と名づけた。(創世記35:16-20)
ベニヤミンは、生まれたと同時に母が死んだので、母との思い出が無かったであろうが、彼の子孫は、その母が死んだ場所、墓のある場所が、主から相続地として与えられたわけである。
また、ミツパという場所は、後に、イスラエルが戦いや集会の時に集う場所として、よく用いられた。(士師記10:17、20:1、1サムエル記7:5)
そしてなんと、エルサレムも、ベニヤミンの相続地の中に含まれている。
エルサレムはダビデの町として、代々ユダ族の王が住んで来たため、ユダ族にくじが当てられたと思われがちだが、元々は、ベニヤミン族にくじが当てられた土地である。
なぜそこはユダ族が住む所となったのか。
ベニヤミン族はいつまでもエルサレムに住むエブス人を追い出さずにいた。
また、ベニヤミン人サウル王の時代になってもそこは手付かずのままであったため、結局、その後のダビデ王が、そこに住んでいるエブス人を追い払ったために、結局ダビデの町となったのだ。(2サムエル5:5-9)
そして、後にはこのエルサレムに神殿が建設され、ベニヤミン族は、神殿に礼拝しに行くのに近いというメリットが与えられた。
また、ソロモンの後の時代にイスラエルが北と南に分割された後も、ベニヤミン族はユダ族の側についたため、「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り」というモーセの預言が成就したのだ。
ベニヤミン族は、ヤコブの祝福によって、大きな力が与えられているのに(創世記49:27)、積極的に攻めて行かず、結局この狭い地域しか与えられなかった。
また、エルサレムという素晴らしい地が与えられているのに、そこも長らく攻め落とさずにいたため、ユダ族のダビデによって、先取りされてしまった。
私達は、主から与えられた力をもって、積極的に祝福を勝ち取っていくものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:いつまで行かないのか(ヨシュア記18:1-10):右クリックで保存
『イスラエルの人々の全会衆は、その地を征服したので、シロに集まり、そこに会見の幕屋を立てた。』(ヨシュア記18:1)
シロという場所は、イスラエル全領土のほぼ真ん中、エフライムの相続地の中に位置し、ここに会見の天幕が設置されて以降、ダビデの時代までそこは人々がいけにえを捧げに来る礼拝の場所となった。
ヨシュアはそこで、イスラエル全体を呼び寄せ全体会議を開いた。
『その時、イスラエルの人々のうちに、まだ嗣業を分かち取らない部族が、七つ残っていたので、ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか。』(ヨシュア記18:2-3)
カナンの相続地は、順番待ちして得る類のものではなく、積極的に進み行く人が、早い順に獲得するものである。
事実、ルベンやガド、マナセの半部族は、早期に求めたために早く得たし、また、ユダ族やヨセフ族は、積極的に攻め行ったために、広く良い地を得た。
これら五部族が、先に占拠してしまったから、もう残りは無かった、というものでもない。
なにしろ、主がアブラハムに約束された土地は、「エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。」(創世記15:18)という、広大な地である。
だから、もしこれら七部族が、ユダ族達のように積極的に攻め行っていたなら、聖書の巻末等にあるイスラエル十二部族の相続地図は、もっともっと広いものとなっていただろう。
しかしこの七部族は、ヨシュアが老年になったこの時まで、ずっと手をこまねいて、獲得しに行かなかった。
だからヨシュアは「主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのか」と叱責したのだ。
キリスト者の中にも、天の御国の働きのために、積極的に自ら動いて働く聖徒もおれば、自分の手は動かさず、ただ他の兄弟姉妹が働いて得た恩恵に乗っかるのみの人もいる。
しかし自分の手を動かさない者は、着実に貧しくなって行き、努めて働く人は、確かな報いを主から得られる。(箴言10:4)
『なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、”自分の行ったことに応じて”、それぞれ報いを受けねばならないからである。』(2コリント5:10)
私達は、少しでもラクしようと考えたり、いかに手を動かさないかを思案したりするような、”けち”な考えではなく、むしろ、ユダ族やマナセ族のように積極的に多くを勝ち取り、得たものは気前よく他の聖徒達に引き継がせ、さらに積極的に勝ち得て行くものでありたい。
『人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。 』(エペソ6:6-8)
『見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 』(黙示録22:12)